今年もよろしくお願いします

年末に読んでいた本について書いているうちに2019年も一月四日。

三が日は初詣3箇所、お墓まいり2箇所を1日づつこなして、お雑煮も3日間食べ、今朝はトーストとコーヒーに。義母は3年くらい前から出かけても食事に行っても帰ってくると忘れてしまうので、付き合っているこちらもどんどん正月らしい気分とかとは無縁になってきている。常に今の瞬間を生きるという意味では見習うべきだろうと、そういう境地を目指して12月から瞑想を始めた。しかし、年末年始は家族もいるし何かと気忙しくついサボってしまい、やっても雑念が頭からとても抜けない。ちゃんと続けられるようになったら、生活の中で何かが変わっていくだろうか。

 

さて、本のタイトルはこちら

樹木たちの知られざる生活: 森林管理官が聴いた森の声 (ハヤカワ文庫NF)

樹木たちの知られざる生活: 森林管理官が聴いた森の声 (ハヤカワ文庫NF)

 

 作者のヴォールレーベンという人はドイツの森林管理の仕事をしているが、行政官として仕事を始めた頃は森の木を木材として、その利益を考えていたというが、森の管理や原生林の保護の仕事を続けるうちに森の奇跡や不思議にたくさん出会い考え方が変わっていく。人間の目線で伐採したり皮を剥いで枯れさせたりすることがとてもできなくなる。

作者は行政の立場から森林を保護することの限界を感じ公務員を辞めて独立して森林保護の仕事を始めるが、それに森林のある自治体が彼に賛同して森林の保護と管理を個人的に委託したという。数十年単位の本来自生しない樹木の植林や大型車両による木材の運び出しや害虫駆除剤散布などは、採算や人間の都合による林業だが、彼は樹木の習性を尊重して健康で幸せな森を作る方が生産的でそこから得られる収入も多いのだという。

原生林の中では木はお互いに助け合って、根どうしが繋がって栄養を分け与えたり、枝も友達を邪魔しないように伸ばしているという。木も人間と同じように痛みを感じ、記憶もあり、親子一緒に生活している。そこに菌類なども協力していたり、少し読み始めると、木に対する考え方、感じ方が、その後の木に対する時の自分の感情が変わっていくのがわかる。

今まで知らなかった木の生態について幾分かわかったからといって植物に対して理解できたとは言えないのだが、木の不思議さを想像することはできる。

 

森の中の木は自分の子孫が早く成長しないように地面に届く光を少なくすることで教育するのだという。若い木は光がたくさんあればすぐ大きくなるが、殆ど成長できないくらいの光の中で何十年とかけてゆっくりと成長する。100年で鉛筆ほどの太さで人の背丈程度の高さにしかならないのだが、そのおかげで内部の細胞が細かく折れにくく、病気にも強い木になり、結局長生きすることができるのだという。木は長生きするほど若々しく、成長も早く力強くなるのだ。

 手つかずの原生林に入ってみると鬱蒼として歩けないかと思うと、枝は高い位置にあり、低い草や小さな花はあるが歩きやすい。これはなぜか?

 過去のブログで沖ノ島の本殿裏の森のことを書いたことがある。全く人の立ち入らないその森に特別に藤原新也さんが入ることを許されて写真に収めたのだが、まるで庭師が作ったかのように感じたのだという。

plumarrri.hatenadiary.com

この本を読んでいくとその疑問の答えが腑に落ちる 気がする。

 

私は巨木に出会った時にその幹に手を当てて目を閉じても、何かのメッセージを木から聞くことはできない。何もしゃべってはくれないが、いつか木の考えがわかる日が来るかもしれないと。それは何となくわかっていたような気になっていたことが全然違っていたということばかりかもしれない。

スイスの憲法では「動物、植物、およびほかの生体を扱うときには、その生き物の尊厳を尊重しなけらばならない」というのがあるそうで、道端の花を摘むのも許されないという考え方なのだそうだ。

人間同士でも同じはずなのに別々の考え方で理解できないこともある。動物や他の生き物も生きていることはわかっている。植物も生きているものであるということはわかっている。ただ理解できないというだけで、地球上の生き物すべての命が等しくそして互いに助け合っている存在だということを無視することはできないはずだ。それを受け入れた時に自分自身も変わっていくような気がする。

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