冷蔵庫に卵が一つ残っていたのでお昼に食べた

今朝は都内でも雪が少しちらついたようで、どんよりとした曇り空。2021年ですね。そして去年に続き二度目の緊急事態宣言の中の日常にある。

ニュースで新しいコロナの変異種がというのが今になって、さも新しいことのような感じを受ける言い方なのが気になる。なぜなら、もう去年も世界各国でどんどん変異していて、日本で流行っている型、ヨーロッパの型、アメリカや中国などで同じではなかったはず。そんなニュースも見ていたと思うのだが、今急に新たな発見みたいな言い方に感じられて引っかかる。もしかしたら、それでワクチンが効かなかった時の言い訳にもなるのかと。

もう一つ、ニュースで全国各地の養鶏場で鶏が数羽死んでいるのが見つかると、その後鳥インフルエンザが確認されて100万羽単位で殺処分されている。

 

 半熟卵の経験は毎朝同じだが、同じものは二度とない。興味は無限で、尽きることがない。半熟卵はいつもおいしい。それは良質のたんぱく質をコンパクトな形で摂取させてくれる。誰がそれ以上のものを求めようか。

 もちろん、私はとても幸運だ。伝染病の発生しやすい環境に鶏を閉じこめることをしない近隣の農家から出荷された、有毒物質を含まない卵をコープで買うことができるから。それは茶色い卵で、丈夫な殻とオレンジ色の黄身をもっている。一生を汚いところで苦しみのうちに過ごす雌鶏たちが、生んだ殻が薄くて黄身が黄色い代物ではない。ちなみにオレゴン州議会はついに、家禽の連結ケージ飼育の禁止を決定した。(でかした!)だが、実際に禁止が実地されるのは二〇二四年だ。(残念!)。私たちの生活を牛耳るロビイストたちが、苦しみと不潔さと病気があと十三年続くことを求めているのだ。鶏たちが自由になるのを、私が生きてこの目で見ることはないだろう。

     

 

 私の大好きな『ゲド戦記』の作者のエッセイから引用

U・K・ル=グウィンの作品のほかはほとんど読んだことがなくて、10代の終わり頃に『ゲド戦記』を読んだきりだった。2010年10月から始めていたブログから何編かをまとめてものだが、とても面白い。残念なことに彼女は2018年1月22日になくなっているそうだ。

本のタイトルがまたとても惹かれる。私も大切なことを考え続けたい。

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本の通りに作ってみたけれど、半熟にならずかた茹ででした。 

私が卵を食べるのは週に2個くらい。大抵は目玉焼きが多い。でも本を読んだら無性に半熟卵が食べたくなって、作ってみた。アメリカとイギリスでは食べ方が違うらしいことを初めて知った。そして半熟卵をすくうための専用の卵匙というものがあり、素材はステンレススチールか、角でなくてはならないと書いてあった。写真のスプーンは以前、道を歩いていた時に露店で売っていて大きさが気に入って、買ったものだ。水牛の角と札に書いてあって、半信半疑で買ったものだが、最初はツルツルしていてプラスチックかと思ったが、扱いがいけなかったのかザラザラした表面になってしまった。 通りすがりで見つけて特に値段も安くて製造元も何もわからないのだが、使いやすくて気に入っているものだ。何故水牛の角なのかわからなかったが、卵を食べる時に角でなくてはというのを読んでそうだったのかと思った。

 

そしてお昼のニュースを聞くと、まだ今年オリンピックをするつもりだそうですが、何を考えているのでしょうか。そのために途上国にワクチン供給って、陰謀論でなくっても何言ってんだという話。

背中にお日様を感じながら久しぶりの更新

11月に入って、もうお店の前にクリスマスツリーが並んで早すぎるだろうと思っていたのに、もう本当にクリスマスになってしまった。

今年は出かけることもすっかりなくなって、その分思索が深まったという感想をテレビで言っている声を聞くが、私自身はやはり頭がどんどん退化してるんじゃないかと思うくらい、何故時間はあるはずなのに何もできないのかわからない。

 

この前NHKの番組でミスチルが出ていて、新しいアルバムが出たのを知って早速買ってきた。しかし、歌を聴いてもその歌詞が頭に入ってくるのは若い頃のようには全然いかない。もう読むのがやっとの小さい字の歌詞を読みながらそれでもその意味するところをきちんと理解しているわけでもない。番組の中でも歌っていた『Brand new planet』の中の歌詞で”新しい「欲しい」までもうすぐ”というフレーズがある。それを聞く時に今更欲しいものなんてあるか?と言いながらその足で向かっている先はStarbacksで、その理由が25日までやってる3周年記念スターバックスオリジナルデザインモレスキンノートをもらうためだ。そのためにエスプレッソマキアートを飲みに行く。

道の途中の店の前からワムの「ラスト・クリスマス」が流れてくる。私たちはまだ「ラスト・クリスマス」のある世界にいるのだ。

考えてみる。それがなかった世界とあり続ける世界の違い。この歌を聞く時、イルミネーションが輝き、クリスマスディナーをどこかの店で誰かと食べる、そんな風景が当たり前のように見えていた。今までこの時期にいつも聞いていて考えなかったこと。それは本当のラスト・クリスマスなのだろうかと。

スターバックスも席数を限定して12人座れる壁際の長いソファーに対して大抵3人しか座っていない。それ以上は紙が貼ってあって座れないようになっている。おかしいと思うのはそのすぐ後ろの大きいテーブルは隣の距離は10センチくらいなのにテーブルの上に仕切りがあることでそこには12人びっしり座っているのだ。それでも席が全体に少ないので最近は二回に一回くらいしか座れない。

最近、注文のカウンターに並んでいると、前の若い人がメニューを指して、「これは苦いですか?」と聞いているのを二回続けて聞いた。今の人にとって苦いコーヒーは苦手な人が多いらしい。

それから一時期コロナ対策でマグカップを止めていて、すると紙コップになるのだが、店内で飲むといっても蓋が付いていて、せっかくプラスチック削減でストローやめるとか話題になってなのに、こういうところは何故考えないのかと思いながら、注文するときには蓋は要りません!と言わなくてはいけなかった。最近はまたマグカップで出てくれるようになったが、注文するときはあれこれ言うことが多くて大変だ。公園とかにあるスターバックスでは店の前のベンチとテーブルで飲むときは10パーセントの消費税で数メートル離れた店の前のベンチで飲むときは8パーセントの消費税でどちらで飲むかまで考えて答えなければならない。

飲み終わったゴミはまた店内に戻さなければならないだろう。それを家まで持って帰る人がいるとは思えないのだが、どうなっているのだろう。

スターバックスでコーヒーを飲むだけでも色々おかしすぎる一年だったが、世の中はもっとおかしなことだらけの世界になった。そしてそれを言うこともだんだん出来ない時代になってきている気がしている。

23日のスターバックスの店内に戻ると、若い父親が一人でアイスコーヒーを飲みながらまだ首が座ったばかりくらいの赤ちゃんを抱っこしていた。スマホがテーブルの上に乗ってはいるが、赤ちゃんの顔を何度も愛おしそうに見て微笑みかけている。まだ赤ちゃんはあーとも声も出さないで静かにしている。ソファーに寝かされるとまだ寝返りもできないくらいの頃のようで、そのままの姿勢で父親の顔を見ていた。しかし10分くらいして泣き出した。その声は想像していたよりずっと力強く、多分駅ビルのフロアー全体に聞こえるかというくらいだった。

父親はミルクをリュックから出して作り始めた。泣いている間にソファーから落ちたりしないように前に座っていた女性客が抱っこしてあげていて、店員の人も何か手伝ってあげるためにか声をかけていた。

ミルクを飲む間は泣き止んでいたが、その後また泣き出して今度はオムツの交換で近くのベビールームへと入っていった。

若いお父さんと赤ちゃんになんだか何もせずに今まで生きてきてごめんなさいと謝りたい気持ちでいっぱいになる。

 

泉が見たい!

1週間ちょっと前、緊急事態宣言中にネットで買い物した九州のお店からメールが来て、店長のブログというのが紹介されていたので、読んでいたら、鶴川の源流の泉に行った話があった。興味が湧いて調べたら意外に近そうなので私も行きたくなった。

そして行ってきました、という前にそれがなかなか行き着けなかった話を。

日曜日に車で八王子に用があり、行った帰りにナビでここら辺かと入れてみると、都立小山田緑地というのがありそちらに行った。サービスセンターがあり管理の人に鶴見川源流の泉はここですか?と聞くとここから歩いて20分くらいのところです。と教えてくれた。もう夕方近くなって歩いて往復するのでは駐車場の閉まる時間に間に合わなそうだったので、車で指示された方に走って行った。まっすぐ歩いて20分くらいと言われたのだが、見つからず、もういい加減すぎてしまったのだと思って、途中で引き返して、その日は帰った。

次の日は午後から雨だった。今度はモノレールで多摩センターまで行き、小田急線に乗り換えて一駅、唐木田駅から歩いて行った。

駅から15分も歩くと昨日の小山田緑地にも繋がっているよこやまの道に入りずっと緑道を進む。昨日車で走った道まで出たので、あとはまっすぐ行くだけ・・・

ところが雨だったせいか、今度は標識に気づかず気づけば八王子の長池公園まで出てしまったという・・・

長池公園の自然館で地図を買ってよくよく見ると、どうも通り過ぎてしまったようで、その日も2万歩近くも歩いて帰ったのだった。

しかし、地図を見れば公園を横切るくらいの距離に泉がある。夜にさらにユーチューブなどを見て三日目またチャレンジ。

再び唐木田駅から歩く。

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街と丘陵地の境によこやまの道の標識。

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右手は大妻女子大学の校舎で後ろからよこやまの道に入る。

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丘陵地の雑木林に入るとニュータウンとはたちまち別世界。

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畑や谷戸の田んぼの眺め。

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そして昨日、一昨日行き着けなかった道を三度歩く。

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この先の鉄パイプで囲まれているあたり。

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池は2つあり、こちらは下の方。

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案内板もやっと見つけたけど、ほとんど読めない。

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上の方の池。真ん中のあたり、下から水が湧いていますが、わかるでしょうか?

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指が入ってますね。しつこく3枚もあげているのは、今までたどり着けなかった分ということで。泉が見たいと思って、なぜそんなにも惹かれてしまうのか、泉を見ていても答えは見つからなかった。でも、今でも心が惹きつけられている。まだ何回か行くだろう。

地図には載っているけれど、鉄パイプで囲まれているのは私有地で立ち入り禁止なのだろう。

近くでトンネル工事があった際、一時は泉が枯れた時もあるようだ。開発の制限や、市民団体の保全活動で泉は守られてきたようだが、この先はどうなっていくのだろう。周りは尾根の雑木林に囲まれているものの、抜けると開発された街がぐるりと迫っている。この景色も10年前のものとはなんとなく変わってきているのを感じる。10年後もこの泉はあるだろうか。

通り過ぎて、また散策路に入ると案内表示板があった。

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ちょっと読みにくいが、鶴見川源源流(源頭)と書いてある。この矢印の先は道ではなく、下の写真の笹で覆われている方向なのだが、こちらにあるのだろうか?笹を掻き分ける勇気はなく、長池公園方面に出る。

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幹線道路に出ると、今までいたところとの風景の違いに考えさせられる。何故、ニュータウンだとか言って、同じような顔になってしまうのか。

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長池公園長池。公園からせせらぎ緑道を通って今度は京王線堀ノ内駅へ向かう。

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せせらぎ緑道という気持ちの良い緑道を通り終点まで行くと目の前にカフェがあった。

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3日間の努力も報われる、美味しいお昼ご飯を頂いた。

 

新しいカフェがオープンした

家を一歩出ると甘い香りが漂っていた。見回して見える範囲には金木犀の木はなくて、どこから来るのかわからない。最初は気がつかなかったが、ラジオで話していたのを聞いて、ああこの香りだったと思い出した。

 

昨日の朝の新聞で多摩地域の情報面で歴史的建築「沖本邸」が改装して「カフェおきもと」オープンと紹介されていたので、すぐに見に行ってきた。

国分寺市ではあるが隣の国立駅から歩いて10分くらいの距離だった。

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隣の国立駅でさえ、ちょっと久しぶり感があって、思わず撮る。下がnonowaというJRの商業地域になっているが、入っているお店が半分くらい変わっていた。本屋さんのカフェはスターバックスになっていた。

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昔の赤い屋根の駅舎も壊した後保存していると聞いていたが戻されたようで、中に人が入れるようになっている。しかし、後ろの現在の駅の建築とはそぐわないせいか、保存されていたのがどの部分で古い部分と新しい部分が混ざっているのか、なんとなく以前のイメージとは変わって安っぽく見えてしまう。

駅から近いのだが、地図を見ると、道路が迂回していてぐるりと回り込まないと行き着けないようで、大体の方向で歩いて行ったら、少し迷ったが無事着いた。駐車場もあるが車で来るのはかなり難しいかもしれない。近所の道を知っている人なら来られるけど、どちらに行っても行き止まりの道の角にあるので、宅配便の人とか道を知らないと大変だろうなと思った。

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そして入り口も森の中へいくような道。でも看板が目立つのでわかりやすい。

 

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入ると、和館があり洋館と繋がっているようだった。

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この写真では人があまり入らなかったけれど、左の庭のベンチには20人くらい?カフェ待ちの人が座っている。

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新聞によると洋館は1932年、和館は1940年に建てられた国分寺市内では現存する最古の別荘建築、洋風建築なのだそう。保存しようとする人がいなければ壊されていたかもしれない。

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一時間くらい待ってランチの時間にギリギリ間に合った。時間が過ぎると同じメニューはあるが、ドリンクとスイーツのセットは別価格になるらしい。

庭で鳥の声を聞きながら、のんびり草花を眺めてベンチで座ってぼんやりと過ごすと時間を待つことが苦にならない。むしろ普段そうした時間がないことに気がつく。

新しいカフェがオープンの嬉しいニュースの一方で、家の近くで10月に入って9月30日で閉店しました、との張り紙が三店舗、ファミレスが一軒、その他に近く閉まるという話も聞く。

駅の前のケーキ屋さんのカフェもこの前まで普通に人も入っている方だと思っていたのに、閉店してしまった。もし、こうしてどんどん変わっていくとしたら、それが良い方向に変わるようにするにはどうしたらいいのだろう。例えば地産地消でおいしものが食べられて、地域の人たちが集まる場所とかができることはこれからの社会でこそ大切だと思う。

 

 

今日はガーゼのマスクを10枚洗いました

我が家の非常食のローリングストックについて

お昼にカレーを食べた。

半分米という水でもどすご飯の6年前に、賞味期限が切れたもの、レトルトカレーは最近買ったもの。

ご飯はお湯で戻して20分、暖かいうちに食べたので、食べられた。

一人前のご飯は少食の私にはちょっと多い。これが非常時で水で戻した状態だったらもっと食欲は出なくて半分も食べられないのではと思う。

登山などでも食べるように売っているが、美味しさはどうかというと、ご飯の類はほそぼそでどうしても食欲が出ない。お腹が空けば食べられるかと言うとそうでもないと思うのだが、本当に飢えたらそんなことは言ってはいられないはずだと言うことだろうか。

同じ種類でもおこわ はお米の粒がそのままでもっちりしていて、ふつうのパックのものとあまり変わらない。こちらだったら非常時でも食べられると思う。

期限の切れてしまったものはまだかなりあるが、家族人数も2人になったので食事の中で定期的に食べていくようにしたい。次に買うとしたらおこわ を足していこうと思う。

缶のパンは5年の賞味期限だが、こちらは定期的に週一回くらいで朝食に一缶食べている。よく非常食用に売っているのは甘いものが多いが、プレーンなタイプ(ブリオッシュタイプなのでそれでも少し甘い)ならローリングストックとして回転していける。

他に非常食としては乾パンとかお餅とかあったが、食事としてはほとんど食べられない。娘が会社からストックの期限が切れる前にと持って帰ってきたのは小麦粉と砂糖を固めたようなもので、ボソボソでカロリーだけはあるのだろうが、一つ食べるのも容易ではなかった。

その後揃えたのは缶のビスコとマリービスケットに変えた。

非常食と言ってリュックに詰めたまま忘れてしまうことなく、期限切れを出す前に、食べられるものを揃えて順番に食べていくようにしたい。

 

NaClとH2O 

昔食塩5キロの袋の外側にはNaClと書かれていた。30年くらい前の記憶だが、ご存知の方もいるだろうか。

純粋な化学式で不純物のないことを誇っていた。

ところがそれが塩としての美味しさもないということがわかって、人々も意識し始めたら、今は海から作った塩と書いてある。

いつから表示が変わっていたのか、果たして製造方法が変わったのかどうかは知らない。

その頃はまだあまり食塩の種類はなかったが、食べ比べた時にその違いに驚いて、以来海の塩とか岩塩を使っている。もっとも2年くらい前に海の塩の中にもマイクロプラスチックが入っているので塩を買いだめした人も多いという話を聞いた。

科学的に作られた不純物のない塩ではなく、不純物の中にこそミネラルが含まれていて、それが美味しさの違いなのだろう。

水についても同じなのだと思う。純水を飲んでいて体の調子がよくなくなってくるという話はそれが流行った頃によく聞いたが、ミネラルが含まれていないことと関係があるのだろう。

水道水にそれが期待できるのかどうかはわからない。ただ水は大事だ。水は生命。だから最近水についてよく考える。

多分そんなこと関係ないと言われるだろうが、水を飲む時にありがとうございます、と声に出すとか、コーヒーをかき混ぜる時に右回りと左回りでは違いがあるのだろうかとか考えながらかき回す。

8月に暑さで汗疹が酷くなり、蕁麻疹のようになってしまい、漢方薬とシャワーの栓をテレビで広告しているミラブルに変えた。今涼しくなって、ようやく、すっかり治ったので、結局それが良かったのだとはっきり言えるわけではないが、水が変わったという感じはした。

 

いろいろな店の張り紙

トイレの蓋をウイルスが飛ばないように締めてくださいというもの。

今日は蓋を開けて流れたのを確認してくださいというものを見た。

レジで袋の有料化で、袋詰めはなくなって自分でマイバックに詰めるようになり、作業台の前には迅速な袋詰めにご協力ください、とある。コロナのために密になるのを防ぐためにさっさと詰めてくださいというお願いだ。

何から何まで指示されて、従順に従って、私たちはどこへ向かっていくのだろう。

お願いと言いながら強制的なマスクにしても検温にしても拒むことは許されない。

 

 

今年の夏祭りは中止

昨日は本来ならお祭りだったのだが、コロナウイルスの感染拡大防止のために中止になった。それ以前の花火大会や人の集まるイベントもみんな中止になっているが、やはりいつもだったら夜まで聞こえるお囃子の太鼓の音が全く聞こえないのは不思議な感覚だ。夏の終わりに風に乗って太鼓の音が聞こえてくるとそれ以後の季節が変わったように感じていたのに。

こうやって新しい暮らしの中で今までの暮らしが自分の中から消えていってしまう。後に残るのはなんだろう。お茶を飲もうと駅前の小さな喫茶店に家族3人で入ろうとしたら、2人までと断られたり、別の店で2人で座ってみたらテーブルの真ん中に衝立があって話しづらいし、介護していると、手を出してコーヒーに砂糖とミルクを入れるのにいちいち立ち上がって向こう側に回らなくてはいけなくて大変だった。

 

最近車で夜に走っているととにかく対向車のヘッドライトがまぶしすぎて、目が痛くなる。明るすぎてちょっとでも目に入ると眩んでよく見えなくなるし、私は助手席に座っているだけなので、別に見えなくても構わないが、他の運転している人たちはほとんどの人は大丈夫なのだろうか?タクシーに乗った時に話をすると運転手の人はだいたい同じように感じているようで、年配の人は夜の営業はしてませんという人もいた。

ライトは本来下向きになっているはずだが、道路には多少アップダウンがあるので、ちょっとでも車が上向きになればすぐ対向車の方から見ても眩しいのだ。

今の技術でちょっとでも車が坂で上向きになったらライトの角度をさらに下に下げるとか、可能なのではないだろうか。でも誰も何もしないし、言わないのが不思議だ。LEDでなければ、そんなに痛いほど眩しくないのは明らかなのに、目よりも効率が大事ということだろうか。その昔は信号などで対向車があるとライトを手動で落としていたような、気もするが、今は自動になっているからなのか、どの車もピカーっと光らせたままだ。

もし、運転手が自分がまぶしければ、自分の車のライトも相手が眩しいはずと信号で止まるたびに消すだろうか?でもつけた瞬間が却って眩しくて目がくらむだろうか。科学技術って人のために進んで欲しいのに、低コストとかにしか向いてない。

 

最近グーグルである言葉を検索してみたら、全然出てこなくて、YAHOO!の検索は出てきた。二つの結果があまりにも違うのにびっくりした。今日はどちらも同じように出てきた。日によって違うのだろうか。「イエスタデイ」という映画では、検索して出てこないということは世界に存在していない、というのがあったが、私自身もそう思っていた。でも最近感じるのは、検索の結果から理由があって外されている場合、探しても見つからないこともあるのだということ。だから、見えているところだけで判断してはいけないのだ。何しろ今までグーグルで探せばなんでも出てくると信じていたのだから。

もちろん、検索に引っかからないような設定をして出てこないこともあるだろうが、そうではなくて、表示されないこともいろいろあるのかもしれない。

 

昨日の昼に神社に行ってお参りだけしてきた。例年なら屋台や御神輿で歩くのもやっとなのに、ほとんど人に合わなかった。本殿をお参りしてから鳥居の横に小さなお社がいくつか並んでいて、そちらにもお賽銭を入れていく。一番端っこが目の神様で龍が水瓶の上にあるがお賽銭を入れたら龍の口から水が出てきた。どこかで操作しているのかセンサーがあるのか、今までそんなことなかったと思うので、ちょっとびっくりした。すかさずその水で目を洗ってみた。パソコンも本も目が悪くなるとなかなかみられなくなるので、どうか悪くなりませんように。ちょっと不思議なエネルギーをもらえた気がした。

 

 

 

青空を見なかった7月ももうすぐ終わり

すぐ間隔が空いてしまうので、書く内容がごちゃごちゃになってしまっている。そして、内容はつまらないことばかり。そんなどうしようもない日常が貴重な一日なのだと思う。

先週の4連休、東京の人たちは出かける先があまり無いためか、私も久々に何年ぶりかで隣の市にあるカインズホームに行ったら、駐車場に車の列ができていた。家族でどこに行くわけでもなく、ホームセンターで植木買ったりする人が結構いるようだった。

カインズホームも昔はフードコートとかもあったが人が集まらなくて無くなってしまっていて、今はそのスペースにペットのコーナーが何倍もの広さになっていた。カインズホームのペット売り場は昔見たときに(多分10年くらいは前)小動物がガラスケースの中で弱っているのが目について、もうペット売り場がなくなっているかと思っていたのに、世の中がペットブームが続いているということなのか、今回はとくにフクロウやコノハズクが何種類かいて、檻の中ではなく、手を伸ばせば届きそうな位置にじっと止まっていた。

そのせいか、次の日に夢の中で鳥にあった。緑色のふわふわした丸っこい可愛い鳥で、ほっぺがピンクのと、黄色いのといて目がくるくると可愛い鳥の夢だった。しかし、鳥だけはこんなに綺麗なカラーなのだが、それ以外は廃墟から脱出しなければならないようなハードな夢だった。楽しいんだか、しんどいのだかわからない。

義母も2週間総合病院に入院して、また元いた老人病院に戻った。そちらでもPCR検査を2回受けて1週間後に2回目の結果も陰性と確認できてから、やっと自分の部屋だったところに戻ることができた。戻ると、もう手術したことなどは全く覚えていなかった。その日に2月以来初めて目の前でマスクをつけての面会となった。30分間であるが、ガラス越しや、オンラインでは耳が遠いせいもありほとんど会話にもならないが、目の前にあると「今日は寒いね」などと他愛無い話でもすぐ30分は経ってしまった。

そして病院では七月中旬から再び面会は禁止されて、次回はガラス越し面会しかできなくなった。

会うときにはいつも美味しいものが食べたいね、と食べることが大好きだったのに、飲食を一緒にすることもできないのが残念だ。手術の後、食欲が落ちてきて、体重が一気に落ちてしまったという。以前までは病院のレストランで一緒に食べたりすることもできたのだが、お菓子を家族があげたり、お茶を一緒に飲むということも今は禁止になってしまっている。

 

 

 

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