今年の夏祭りは中止

昨日は本来ならお祭りだったのだが、コロナウイルスの感染拡大防止のために中止になった。それ以前の花火大会や人の集まるイベントもみんな中止になっているが、やはりいつもだったら夜まで聞こえるお囃子の太鼓の音が全く聞こえないのは不思議な感覚だ。夏の終わりに風に乗って太鼓の音が聞こえてくるとそれ以後の季節が変わったように感じていたのに。

こうやって新しい暮らしの中で今までの暮らしが自分の中から消えていってしまう。後に残るのはなんだろう。お茶を飲もうと駅前の小さな喫茶店に家族3人で入ろうとしたら、2人までと断られたり、別の店で2人で座ってみたらテーブルの真ん中に衝立があって話しづらいし、介護していると、手を出してコーヒーに砂糖とミルクを入れるのにいちいち立ち上がって向こう側に回らなくてはいけなくて大変だった。

 

最近車で夜に走っているととにかく対向車のヘッドライトがまぶしすぎて、目が痛くなる。明るすぎてちょっとでも目に入ると眩んでよく見えなくなるし、私は助手席に座っているだけなので、別に見えなくても構わないが、他の運転している人たちはほとんどの人は大丈夫なのだろうか?タクシーに乗った時に話をすると運転手の人はだいたい同じように感じているようで、年配の人は夜の営業はしてませんという人もいた。

ライトは本来下向きになっているはずだが、道路には多少アップダウンがあるので、ちょっとでも車が上向きになればすぐ対向車の方から見ても眩しいのだ。

今の技術でちょっとでも車が坂で上向きになったらライトの角度をさらに下に下げるとか、可能なのではないだろうか。でも誰も何もしないし、言わないのが不思議だ。LEDでなければ、そんなに痛いほど眩しくないのは明らかなのに、目よりも効率が大事ということだろうか。その昔は信号などで対向車があるとライトを手動で落としていたような、気もするが、今は自動になっているからなのか、どの車もピカーっと光らせたままだ。

もし、運転手が自分がまぶしければ、自分の車のライトも相手が眩しいはずと信号で止まるたびに消すだろうか?でもつけた瞬間が却って眩しくて目がくらむだろうか。科学技術って人のために進んで欲しいのに、低コストとかにしか向いてない。

 

最近グーグルである言葉を検索してみたら、全然出てこなくて、YAHOO!の検索は出てきた。二つの結果があまりにも違うのにびっくりした。今日はどちらも同じように出てきた。日によって違うのだろうか。「イエスタデイ」という映画では、検索して出てこないということは世界に存在していない、というのがあったが、私自身もそう思っていた。でも最近感じるのは、検索の結果から理由があって外されている場合、探しても見つからないこともあるのだということ。だから、見えているところだけで判断してはいけないのだ。何しろ今までグーグルで探せばなんでも出てくると信じていたのだから。

もちろん、検索に引っかからないような設定をして出てこないこともあるだろうが、そうではなくて、表示されないこともいろいろあるのかもしれない。

 

昨日の昼に神社に行ってお参りだけしてきた。例年なら屋台や御神輿で歩くのもやっとなのに、ほとんど人に合わなかった。本殿をお参りしてから鳥居の横に小さなお社がいくつか並んでいて、そちらにもお賽銭を入れていく。一番端っこが目の神様で龍が水瓶の上にあるがお賽銭を入れたら龍の口から水が出てきた。どこかで操作しているのかセンサーがあるのか、今までそんなことなかったと思うので、ちょっとびっくりした。すかさずその水で目を洗ってみた。パソコンも本も目が悪くなるとなかなかみられなくなるので、どうか悪くなりませんように。ちょっと不思議なエネルギーをもらえた気がした。

 

 

 

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