今読んでいる本

少し前にどこかで紹介されていて、ちょうど本屋で見つけて買ってきた本だが、読み始めて面白さにまだ途中なのだが書かずにいられなくなった。

脳科学者が脳卒中になり、その回復の過程の本だと紹介されていたような気がするのだが、その体験そのものが本当に奇跡のようである。

その脳卒中により左脳が壊れていき、でも意識はなくならなかったために右脳で感じることができ、その一部始終を回復してから詳しく時間経過とともに語られているのだが、本当に驚くようなことが語られている。左脳がその認知力を失った結果、自己の認識がなくなり宇宙と一体になった体験をするのだ。

自分の子どもが生まれた時に、成長していくのを見ていると本当に生まれた時には自分の手が自分のものかどうか確かめるように見つめているのを見た。体が寝たきりから少しづつそれこそ10ヶ月以上かけて歩き出すようになるまで、足を動かし、体をひねり、這い、四つん這いになり、そうやって外の世界を認識しながら動き出すさまを思い出す。それはだんだんに世界が自分との境界を持って別れているのを認識していく過程でもあるのだ。

左脳の意識がなくなり、右脳だけで感じる世界は瞑想で得られる悟りのような感じと似ている気がする。言葉はなく、今の瞬間の映像はものではなく、”エネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、私たちの全てが群れをなしてひとつになり、流れている”(P97)ように感じられるという。色や三次元の世界として知覚することもできないのだという。

 

それを読んでいたら、手塚治虫の『火の鳥』のあるシーンを思い出した。未来の世界で死んだ後、手術で生き返った青年の見える世界を描いたものだが、その日の夕刊にまさにそのシーンが取り上げられていて、びっくり。

仏教のお坊さんが以前瞑想のことを話していて、瞑想するとすぐ雑念が次々浮かんでしまうのにどうしたらいいかというのを聞いたことがあるが、浮かんだらすぐ流す、また浮かんだらすぐ流す、そのうちいつか脳が沈黙するというようなことだったが、実際にはそれが難しい。いつだって雑念ばかりで沈黙は訪れない。でも著者の体験した、強制的に沈黙してしまった結果はそんな瞑想の境地そのものであるような気がする。般若心経の意味もほんのちょっとわかったような気がする。左脳の機能がなくなったことで、自己も一度なくなるのだが、それでも愛情を持ってくれる母親はちゃんとわかるし、友人や医師が自分に敬意を払って治療してくれたり励ましてくれたりすることもちゃんとわかる。言葉を理解できない、話せない状況であってもちゃんとそこにクリアな意識はあってそれを覚えていられる。

わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insaight)は、こう言えるでしょう。

「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」(P176)

 

 

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