もう一週間も前の暖かい日に、このブログでも何回か歩いている玉川上水の緑道を歩いた。その頃はまだ11月。なのにもう12月も週末には10日になってしまうという。その間、夫は流行り目で私は祟り目で、下の瞼に脂が溜まり目が開けるのも痛かったのだが、どうやらピークを過ぎてきた。
落ち葉を踏みながら歩く。葉っぱのいい匂いと、カサカサ言う感触が気持ちいい。
写真では判りにくいが、玉川上水の上を直角に残堀川が交差している。玉川上水は地下を通って、サイホン工法でまた上がってくるらしい。
1時間以上も歩いて緑道部分が狭くなり、木の根元のデコボコした斜面に近い1メートルくらいの幅になった。青いテープが巻かれた木が数メートルおきにずらりと並んでいた。何かの診断をされるのか、もうされたのか、目印のテープだ。幹に巻かれているので、伐採されるとしたら、すっかり切られてしまうのだろう。写真は撮らなかったが、昔見た映画の海賊たちが首に鎖をはめられて一列に並んでギロチンにかけられていく姿が見えた気がした。
さらに歩いたところで、遠くから見てもひときわ立派だった木の幹には白いテープが巻かれていた。これは11月末に通行の安全のために切ると書いてあった。ということはもう今頃切られてしまっただろうか。別に木が弱っていて枯れそうな様子もない。周りの木に比べてもかなり年数の経っているように見える木だ。ただここは緑道部分は幅がほとんどなく、そこを遮るように生えていて、横は車道になっている。安全上と言いながら、つまり邪魔だから切るということに思える。
神戸のツリーが話題になったら、木を切ったことに対する抗議の署名の数が多くて、木がかわいそうという人が多いというので、この木は森林組合がもともと使う予定のものだからと再びテレビで説明していたが、その木だけがかわいそうだからと抗議しているわけではない。ツリーとなったあすなろの木を見て、励まされたと涙を流す人達の顔が映されていたが、木の命もその前に消えていこうとしている。私たちが木の意識に同期できれば、樹齢150年のその木に150年先の未来の子供たちへの伝言を託すこともできるかもしれないのだが、私たちには今の時間しか意識することができない。
本当にできないだろうか?少なくとも自分たちの行為くらいはしっかりと意識していたい。一体何をしているのか、どこへ行こうとしているのか。
途中から玉川上水を外れ、砂川の農家の中にあるパン屋さんへ。
落ち葉が舞い散るある日の午後。