ついに猫が立ち上がり半間の押入れの襖の取手を引っ張って戸を開けた

ので、びっくりしてタイトルにしてしまった。うちの猫は家の中をパトロールしてくれてるみたいで、扉を開けて中を覗いて行く。小さい横にスライドする襖は簡単過ぎて、トイレの引き戸や和室のかなり重めの引き戸もみんな中を確認して行く。でも手前に引っ張って磁石の襖をパチンと開けたのにはびっくり。もう1匹の男の子の方は扉は押すのみでしか開けられないので、どこか行きたい時は必ず妹の後を着いて行く訳です。

 

3月

先週はかなり暖かい日があったせいか、街の中でもいろんな木々の花が咲いている。花桃やコブシ、ハクモクレン河津桜と見ていると楽しい気持ちになる。冬の間には静かだった植物の命のエネルギーが奏でるシンフォニーのよう。耳には聞こえない音楽を心では感じる。

色彩もあっという間に豊かになる。白、赤、黄色、緑、青、オレンジ、ピンク。色も音もみんな波長なんだそうで、その境目は一体どこにあるのだろう。目という器官が認識すると色を感じ、耳という器官が認識するものは音になる。

3月というと思い出すのは神田駅の階段。その昔、通勤で乗り換える時、階段を下りていくその速さが4月は普通だったのに一年経って3月には飛ぶように駆け下りていった。しかもパンプスで。そして、4月に新入社員が入ると流れはゆっくりになって、戻る。今では到底無理なその速さが頭の中で蘇る。最近ではスキップさえもできないし、家の階段も手すりを使うこともあるのに、あの頃はほんと飛んでたんじゃないかと。その軽々しい感じがすごく3月に合ってる気がして。

卒業式も終わった後で、みんな別れを惜しんで泣いていたと後から聞いて、さっさと帰ってしまい、そういう気持ちに至らない自分は感受性がよほど鈍いのかと思ったが、毎日は会えなくてもいつでも会えると考えていたし、終わった喜びしかなかったのだ。

新しいことが始まるのは不安もあるだろうが、希望もある。入学式もアメリカに合わせて9月にすればという考えもあるけど、日本の四季に合わせた4月始まりは感性に合ってるような気がする。5月には不調が出て、6月には鬱陶しさに沈むことになるかもしれないが、そんなことは全く考えないのが3月。今だけ、この瞬間に居られる幸せを感じていればいいのだ。

暖かい風が頬を撫でると、それだけで顔が緩む。街の中で一人微笑む。

 

先週は八王子市の谷地川から多摩川に合流するまでの日野市立川市と土手の道を歩いた。

河原の木の中から姿はどうしても確認できないのだが、ウグイスが鳴いていて、まだ練習中という感じて、ホーホケッととかホケキッ?とか多少心許ない鳴き声だった。早い木からは新芽が伸び始めて若わかしい緑色で綺麗だった。

立川市に帰ってから新奥多摩街道沿いのレストランで酵素玄米と野菜プレートのランチを頂いた。旬の野菜が身体に美味しい。

デザートはよもぎくず餅でした。

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