東京新聞で「夏目漱石の美術世界展」のチケットを頂いたので見に行ってきた。
上野公園の噴水が半分になっていて、国立博物館の前がすごく広くなっていた。
東京芸術大学美術館に行くのは初めてだったが、歩く人の多くががその会場のほうに向かって歩いていた。
高校生の頃に読まなければリストに入れて何冊かは読んだものの、今となるとあまり覚えていない。そんなに美術展で取り上げられている様なたくさんの美術作品が作品の中にあるとは知らなかった。ただ、その内容はあまり記憶に残っていないのに、何故かミレーのオフィーリアはその頃強烈に心に残っていて、ずっと見たいと思っていた。
その頃はネットもないので、どんな絵なのか想像するしかなく、ノートに鉛筆で絵を描いたりした。何年かして古本屋ので見た何かの本の中でその絵を見つけたが、想像していた絵とそっくりだった。
と誰に言った所で、思い込みだといわれるに違いありませんが。
今その草枕のオフィーリアのでてくる部分を読んでも、それほど詳しく描写されている訳ではなく、
オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、
という文章のようだ。それが私の中にいつまでも残って、まるで本物の絵を見たかのように錯覚していたのかもしれない。
本物のオフィーリアを観たのは10年くらい前か国立西洋美術館に来た時だった。その時の印象が意外に小さいと思ったのだが、今回の漱石の美術展で写真が飾ってあったのだが、それを見た時「こんなに大きかったっけ?」と思ったのだ。
ちなみに「オフィーリア 小さい」とかで検索すると、いくつものブログにヒットする。
つまり、初めて見て意外に小さいと思う人が何人もいる訳で、どうも広い美術館の壁に他の作品と離れて、また絵そのものにもあまり接近出来ないようにと手前に柵があったりするせいで、より小さく感じてしまうのだろうか。
ところが、私の場合またこのいい加減な記憶の中ではさらに半分くらいの大きさになってしまっていて、とても小さい絵だったと思っていたのだ。
今回は顔がつく位近くで観たせいもあるが、改めて記憶の中の大きさが修正された。
それでも写真だと、まったく別のものになってしまうのも不思議な感覚だった。
夏目漱石は本の装幀にもこだわっていたそうだが、その頃の装幀を見ると本当に素敵だった。そこにお金をかけるとますます本が高くなってしまい、売れなくなってしまうから、最近の本はそういうものがなくなってしまったのだろうか。美術書などではなく、普通に読む小説とかがもっとそういう装幀にこだわったら値段はどれくらいになってしまうのだろう。
それでも自分がそういう本を手にするときのことを想像してしまう。自分の頭の中でまた勝手にデザインや、手触りや、あるいはその匂いを・・
家に帰ってからkindleに漱石の草枕を早速入れました。0円です。