美しい景色とは

 

 先日、東京新聞のオピニオンの欄を読んでいて、「樹木を剪定して、美観取り戻して」というのがあった。河北新報「声の交差点」からの発言で、3.11後を生きるという見出しの下にあった。

内容は松原の展望台からの景観が生い茂った樹木に遮られて望見することが困難になっていたので、樹木を剪定して美しい景観を取り戻して欲しいというものだった。新緑を楽しむために出かけたが、展望台に立ったら目の前の樹木が生い茂って見晴らしが悪いと剪定して美しい風景を取り戻して欲しいということだった。

新聞の構成上、上に「3.11後を生きる」とあったので余計に私の中に別の見方が心に残った。

目の前に茂っている木は庭木のようなものではなく、自然のままの樹形で茂っているものであろう。本当ならそれも景観の一つであって、ただ以前はその展望台から見られた景色とは違ってしまっているということなのだろう。

人は見たいと思うその構図こそが美観だと思うのかもしれないが、まず目の前の生い茂った樹木の成長も自然を感じてありのまま見て欲しい。そして別のもうちょっと高いところから見渡すとか、新しいビューポイントを探してみるとか、まず私たちの見方が変わると、新しい絶景ポイントが生まれてくるだろう。現実にスマホで美しい風景は色々なポイントから撮影されて検索すればいくらでも松原の美しい景色を見ることができる。私がもしその展望台に立って遠くが見渡せたとしても、手前の樹木の枝が無残に切り落とされていたら、手足をもがれた姿のように見えて、とても美しいと喜んではいられないだろう。あくまでも見る人次第で風景というものは変わるのだ。

なぜそんなことにこだわるのか。木がかわいそうだなどというのではない。ただ邪魔だから切るという考え方を受け入れることができなくなってきているのだ。見えなくて邪魔だから切ればいいというのと、不便だから電気をもっと使おうというのも共に3.11前の私にとっての考え方だったからだ。そういう当たり前に思っていたこと、心の持ち方、視点が変わったことが私にとっての3.11後を生きるということなのだ。

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