個人情報

先日、テレビで欽ちゃんの仮装大賞を見ていて、前回のことはあまり記憶にないが、今回は登場者のつながりや団体名など、今までだったら普通に聞いていたり表示されていたと思っていたが、全然触れなかったように感じた。特別に個人情報に配慮するようになってきているのだろうか。学校名などは宣伝もあるかもしれないが、どこから来ましたといって紹介されることもあったと思うのだが、そういうことは全て触れないように配慮されているようだった。

もしかしたら、そういうことを聞くこともプライバシーの配慮からいけないことになってきているのだろうか?

私が住んでいる地区でも町内会があって、昔は住所録も作っていたが、今は廃止されている。古くから住んでいる人は町内会に入っているが、高齢化で抜ける人も多い中、新しく引っ越してきた人はそういう町内会には入らない人も多い。

マンションなどはマンションの自治会があるからダブって入りたくないというのもあるだろうが、新しい建て売り住宅や、ビルに越してきた人は表札すら出さない家もあり、誰が住んでいるのかわからない。

うちの隣もビルだったが、2年前に売って老人ホームへ入りますと挨拶があった後、どこが買ったのか、その新しい持ち主からの挨拶は全くない。

ビルなので名称は前のままでテナントも引き続き入っているので、通りがかりでビルに人の出入りを見ることがあっても、オーナーさんが誰なのかはわからないままだ。

人の関係は全く断ち切られている。

しかしそれでも通常は問題ないのだろう。隣組で助け合うというのは、今では余程の災害が起きた時とか差し迫らない限り、自分にとってメリットがなければ必要ないと思うだろう。それすら、自分の責任で自分で逃げるのが今の在り方かもしれない。

常に不安はあるが、それはただ知らないという不安で、それを元にだから教えろという話にはならないだろう。

それとは別にSNSなどでは位置情報でも買い物情報でもネットには何でも上げて平気な人がいる。私はそちらの方はなるべくあげたくない情報だと思うのだが、感覚の違いなのだろうか。隣り合った人には自分の情報を一切示さず、ネットの世界では情報を与えてしまう。どちらが怖いと思うかの違いなのだろうか。

 

マスクにかぶれる

外に出ると空気が冷たくて鼻水が出るのと、病院の付き添いで出かけるので毎日のように使い捨てマスクをしていた。箱入りで60枚とか入っている安いものを買って使っていたが、ちょっと顔に当たる部分が気になっていたらなんとマスクにかぶれてしまったようで、その部分と耳の後ろのなぜかマスクの当たっていないおでこの生え際がなんとなく痒い。まだ湿疹のようにはなっていないのだが、顔にワセリンだけ塗っている。他の化粧品を塗るのもなんとなく嫌で、その上マスクもしないとなると、素顔をさらして外を歩かなくてはいけない。普段から化粧はほとんどしていないのをマスクで隠せて好都合だったのだが、赤いほっぺで歩いている。

材質はポリプロピレンとポリエチレンで今まで使っていたのも同じようなものなのだが、何か肌に合わない素材か薬品があったのだろうか。

先週のNHKのガッテン!を見ていたら、突然アレルギーになった人のその原因がわかったというのをやっていた。

食べ物でアレルギーになる前に、長い間そのアレルギーとなるものを皮膚にずっと触れていて、皮膚に炎症が傷があった時にそれが体の中に入って時にそれを抗体だと体の中のT細胞と呼ばれる免疫細胞が認識してしまうと、次にそれを食べたり触ったりした時にアレルギー反応が起こり、ひどい時にはアナフィラキシーショックなどを起こすのだという。

ただ口に入った時から起こるものだと思っていたが、その前にアレルギーを起こす原因があるというのはよく考えると当てはまるものも多いように思った。

番組では意外な原因でアレルギーになる例として、医療従事者はラテックス(ゴム手袋)をいつもしていて、ラテックスアレルギーになると同じアレルギーの物質があるものとして、栗、バナナ、アボカドなどのアレルギーを起こしたり、花粉症(ハンノキ、シラカンバ)の人はりんご、キウイ、ももなどのアレルギーになる可能性などを挙げていた。

私は以前、5月ごろに手と顔に湿疹ができた時に皮膚科に行ったらヒノキの花粉症だと言われたことがある。花粉症でも鼻水とかの症状は出ないのだが、手と顔だけに湿疹ができるのがヒノキの花粉症だという。そういえば、その前のクリスマスにリースを作ったことがあって、その花材のヒノキの葉を素手で触って作ったのだが、後からやはり手が痒くなったことがあった。

これは一回だけで1時間くらいしか触っていなかったので、ずっと皮膚に触れていることでアレルギーになるというのには当てはまらないが、マスクの方は最初にちょっと目の下に当たって違和感があったのに、毎日長時間マスクをしていたのがいけなかったのだろうと思った。

故障は続く

また今朝も都内は1センチの積雪。朝は隣の屋根も前回の雪が溶けきらないところにさらに真っ白くなっていたが、午後には半分以下に消えた。

そんな中、我が家の暖房の故障は床下をどのように剥がして交換するのか、前回電気屋さんが見に来て半分だけ使えるようにして行った後、まだ工事の詳細は確定していない。リビングとキッチンと和室とを同じ時期に床暖房を入れた。それから13年経つ。コントロールパネルが壁についているが、この間見に来た電気屋さんによると、パネルは一般家電製品と同じように寿命が10年くらいだという。とすると、もうみんないつ壊れてもおかしくないということなのか。だとすると、修理や交換は壊れた一部分だけの問題ではなく、この際床をはがしたりするのは大工事になるし、一箇所直して床を戻したら、隣のがまた壊れました、なんてことになったらまた床から剥がすなんて現実的ではないし、では全部替えるのかとなるとどのくらいかかるのか?

今朝その見積もりのために大工さんが来たところである。

ところが、その前にまた事件が起きた。

昨日の夜のこと、リビングで10時ごろぴーぴーと言う電気音が3回くらい聞こえたが、どこから聞こえたのかわからなかった。さらに11時ごろにもまた聞こえて、今度はもうテレビも照明も消していたので、どこがなったのか探していた。携帯ではないし、レンジやキッチンの家電も鳴りそうなものは見当たらず、ウロウロしていたら、和室の床暖房のコントロールパネルが突然明るくなってスイッチが入った。触ってもいないのに突然ついたのだが、周りが暗かったので今度はすぐわかった。それがぴーぴーとなって、普通は予約してある時刻が表示されているのだが、文字ではなく滅茶苦茶な表示になり、びっくりして切るのボタンを押すのだが、それが効かない。他のパネルのボタンを押しても全く反応せず、そのうちになんと煙が出てきたのだ。コードが焦げるような匂いもしてきて、慌ててブレーカーを落とした。パネルを触ると熱くはなっていたが、そのあとは煙は収まった。

リビングの暖房のコントロールパネルと和室のコントロールパネルは上下に並んでいて、この間上のリビングのコントロールパネルは電気屋さんが開けて半分だけ使えるようにして行ったのだが、和室の方はその時点では異常がなかったのでチェックはしていなかった。

前回は床のパネルが異常を起こしたのだが、今回は床の方ではなくコントロールパネルの方である。ただ同じ時期の同じ商品だから、たまたま同じ頃に壊れたのだろうか。

それにしても、これが留守中に勝手にスイッチが入って燃え出していたら、どうなったのか、考えると恐ろしくて目も冴えてしまった。

今日また電気屋さんに電話をするとパネルを取り寄せるのに最低で一週間かかるそうで、また来週になってしまう。

昼の間は他のオイルヒーターもタイマーで切ってあるので、ますます暖房が無くなり寒い中で過ごしている。

突然停電

三日前の朝、家族が出かける前の時間、突然電気が消えた。もう明るくはなっていたが、洗面所や玄関は電気がないと暗い。テレビも消えて、どうやら家の中の電気が全て停電しているようだ。ブレーカーを調べてみたが、落ちていないようで、近所も停電しているのかと思って外へ出てみると、うちは3階なのだが、2階は普通に電気が付いている。初めてのことで、どうすれば復旧するのかわからずに東京電力の検針票を見て、電話をかけた。朝7時台だったが、自動音声の案内に従って番号を選択して、数分して電話がつながり1時間くらいで調べに来てくれた。

家の中と外の漏電ブレーカーが落ちていた。

そういえば、その2、3日前からリビングの床暖房が左足のところは暖かいのに右足のところは冷たくて、以前からだったのか、壊れたのかと思っていたのだが、年明け早々また家の中を工事屋さんに修理を頼まなくてはいけないのかとそのままにしていたのだった。東京電力の人が調べて床暖房の漏電であるとわかり、そのほかの電気は復旧した。10年以上前にリフォームして、オール電化にこそしなかったのだが、キッチンをIH、トイレも自動にした結果、停電するととても不便になってしまった。トイレもレバーがあるタイプなら停電しても水が流せるが、それも付いていないのでバケツで水を汲んで流さなければいけない。幸い1時間ちょっとで済んだのでホッとしたが、床暖房の方はこれから修理をしなくては使えない。

しかし、床暖房というのは床にコルクを貼ってあるその下に入っているので、床をはがしてとなると、電気屋さんの修理では済まないかもしれない。

電気のコードなどは耐用年数もあるのだろうが、簡単に取り替えられる様子はないので、すごく心配だ。まず先に電気屋さんに見に来てもらい、どういう工事になるのか調べてもらうことになったが、土日に入ってしまっているので、来週以降の話になるだろう。

夏はエアコンを使っているが、冬は乾燥するので、デロンギのヒーターを使っているが、それだけだとやはり寒い。家の中でも外と変わらぬ服の数を重ね着して耐えている。

 

夕日と富士山と

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駅ビルの最上階のカフェからの眺め。12月12日頃と、1月1日に富士山のほぼ真ん中に夕日が沈む。午後4時10分ごろ。10日くらいまでは少しずつ連れて行くが、富士山の向こうに夕日が沈む。

今日は7日なので午後4時23分頃、向かって右側にずれている。スマホでは滲んで夕日をうまく写せなかった。

駅ビルができて5、6年してそのことに気がついたのは10年くらい前。偶然に見たその景色はその後もなんども見られると思ったが、見られそうで、天気や都合でなかなか見られない。結局人生で同じタイミングで同じ景色を見られることなんて、2度とはないのかもしれない。

年末年始、義母がデイサービスに行き、帰るまでの間に別の身内の介護に電車に乗って出かけて、お迎えに間に合うかどうかハラハラしながら帰路につく。

中央線の高架から家が近づくと富士山と夕日が見える。電車の扉に体をくっつけてじっと見つめる。いつ見ても魅了される。

自分の住んでいる町がそれだけで特別の町のように感じている。うちの窓から見えるわけではないけれど、富士山が綺麗で冬至の前後にダイヤモンド富士が見られるこの町が。

堀文子展に行った

朝の7時過ぎ、家の外にゴミを出して、ついでに家の後ろに出るとそこだけ朝日が届いて日が当たっていて、そこに立ち顔を太陽の方に向ける。晴れている日はそうして毎朝太陽の暖かさを顔に感じて、それが身体の細胞を元気にしてくれていると、目を閉じて数秒の間光のシャワーを浴びるようにしている。冬であっても太陽の光に当たると暖かいのだが、この頃は太陽の熱量が以前よりも少なくなっているようにも感じる。

今朝は東京でも氷点下になったようだ。

日曜日の朝、町内会の廃品回収で雑誌や雑紙やダンボールなど年末で本棚を整理してたまったものを出した。

義母は12月に入ってから、家の中が暖かいと春が来たと思って、毎朝デイサービスに行く時にもうコートはいらないとどこかへ片付けてしまい、探しては嫌がるのを着せていたが、土曜日になったら突然、今日は元旦だから美味しいものをみんなで食べに行くのと言っていた。その割には普段着の上っぱり姿なのだが、お昼にうどん屋さんに車で行って食べて帰ると満足した様子。12月がなくてもう1月になってしまったようだ。デイサービスがなくて家にいると何回もヤカンのお湯を沸かして、そのまま火を消し忘れてしまうので、下の階の別世帯に分かれていて、目が届かないため、午後にはガスの元栓を閉めた。

最近はちょっとまとまって時間を一人にしておくのも心配になってきたので、昨日は車で1時間の義姉の家に義母を連れて行き、見てもらっている間に神奈川県立近代美術館へ行ってきた。そこから高速を使って2時間弱。滞在時間も2時間弱。帰りにやはり2時間弱。それでも無理かと諦めかけていたので、行かれて嬉しかった。

開催されていたのは『白寿記念 堀文子展』である。

今年の7月で99歳になられたそうで、女子美術専門学校の時代から去年の作品までを通して見ることができた。

私が堀文子さんのことを知ったのは堀さんが80代になられてから、何度かヒマラヤ山麓へ行っては幻の高原植物のブルーポピーの絵を描いた後のことで、以来彼女の絵とそのひととなりにとても惹かれている。

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上の絵葉書は一ヶ月前に、銀座のナカジマアートで開かれていた「堀文子展 2017・・・現在〜99歳のアトリエから〜」を見に行った時に買ったもの。上の段の一番右の「紅梅」(2016)と上段真ん中の「極微の宇宙に生きるものたちⅡ」(2002)は今回の展示で見ることができる。

徹子の部屋」で背後に飾られていて印象的な「アフガンの王女」(2003)の絵も展示されていた。

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着いたのが1時半過ぎだったので、展示より先に海の見えるレストランでランチを頂く。水平線がずっと光っているのが印象的だった。

長柄の交差点にあった蔵のパン屋さんは二年ぶりに通ったらもうなくなっていた。

すごく惹かれていたのだが、車が止まれないのでいつも通り過ぎるだけだったのに、なくなってしまっていると、行かれなかったことが残念に思う。

しかし、その先の道では新しい「パンとコーヒーと」という店が出来ていて、そちらは店の前の駐車場は満車で流行っている様子だった。寄り道する時間が惜しくて結局素通りしてしまったが、また次回来る時に(また二年くらい先か?)余裕があることを期待しつつ帰る。

玉川上水駅から歩く

もう一週間も前の暖かい日に、このブログでも何回か歩いている玉川上水の緑道を歩いた。その頃はまだ11月。なのにもう12月も週末には10日になってしまうという。その間、夫は流行り目で私は祟り目で、下の瞼に脂が溜まり目が開けるのも痛かったのだが、どうやらピークを過ぎてきた。

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落ち葉を踏みながら歩く。葉っぱのいい匂いと、カサカサ言う感触が気持ちいい。

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写真では判りにくいが、玉川上水の上を直角に残堀川が交差している。玉川上水は地下を通って、サイホン工法でまた上がってくるらしい。

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1時間以上も歩いて緑道部分が狭くなり、木の根元のデコボコした斜面に近い1メートルくらいの幅になった。青いテープが巻かれた木が数メートルおきにずらりと並んでいた。何かの診断をされるのか、もうされたのか、目印のテープだ。幹に巻かれているので、伐採されるとしたら、すっかり切られてしまうのだろう。写真は撮らなかったが、昔見た映画の海賊たちが首に鎖をはめられて一列に並んでギロチンにかけられていく姿が見えた気がした。

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さらに歩いたところで、遠くから見てもひときわ立派だった木の幹には白いテープが巻かれていた。これは11月末に通行の安全のために切ると書いてあった。ということはもう今頃切られてしまっただろうか。別に木が弱っていて枯れそうな様子もない。周りの木に比べてもかなり年数の経っているように見える木だ。ただここは緑道部分は幅がほとんどなく、そこを遮るように生えていて、横は車道になっている。安全上と言いながら、つまり邪魔だから切るということに思える。

神戸のツリーが話題になったら、木を切ったことに対する抗議の署名の数が多くて、木がかわいそうという人が多いというので、この木は森林組合がもともと使う予定のものだからと再びテレビで説明していたが、その木だけがかわいそうだからと抗議しているわけではない。ツリーとなったあすなろの木を見て、励まされたと涙を流す人達の顔が映されていたが、木の命もその前に消えていこうとしている。私たちが木の意識に同期できれば、樹齢150年のその木に150年先の未来の子供たちへの伝言を託すこともできるかもしれないのだが、私たちには今の時間しか意識することができない。

本当にできないだろうか?少なくとも自分たちの行為くらいはしっかりと意識していたい。一体何をしているのか、どこへ行こうとしているのか。

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途中から玉川上水を外れ、砂川の農家の中にあるパン屋さんへ。

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落ち葉が舞い散るある日の午後。

 

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