割愛された短編

また真冬に逆戻りと天気予報で言っていたけれど、先ほどベランダに来た2羽のムクドリも雨で羽が濡れてふくらんでいて、何も無いと帰っていく姿に思わず「ごめんね」とつぶやいた。

郵便受けに電気使用料のお知らせが入っていて、2月よりはずっと少なくなっているのだが、去年の3月と比べてなんと51%増加しています、と書かれていた。この3年毎年前年度より10%以上は減り続けていたのにここへきて1.5倍とは・・・それだけ3月が寒かったということなのだろう。

また「はだしのゲン」の回収のニュースを見て、差別的表現や言葉がどんどん規制されていったらどうなるのかと考えた。こういう文を書いていてもその言葉を使うことも許されなくなってくるのだろうか。きちがいがいけなくて、病名でも精神分裂病はもういけなくて、統合失調症なら今はいいのだろうか。言葉を使う側に差別的な意識があったとなるとどんな言葉も問題となり、その言葉が使えなくなる。その表現の中にあった差別意識を無くしていくように指導するのではなく、手に取れない所に隠してしまうという意味がわからない。

小学生の時に図書館によく本を借りに行った。その頃好きだった本のなかに、岩波少年文庫の『ふしぎなオルガン』(リヒャルト・レアンダー作/国松孝二訳)という本がある。今私の手元にあるのは2010年新版第一刷発行のものだ。とくに好きな短編があり、大人になってから手元に置いておきたくて買ったものだ。ところが最後まで読んだのにその短編が見つからなかった。最後の訳者のあとがきが1980年の新版がでたときのものだが、そこに新版を出すにあたって、「小さな黒ん坊とこがね姫」の一編を割愛した、と書いてあった。さらに一番最後に小さな字で編集部の付記があり、2010年新版発行に際し、現在の人権意識に照らして「小さなせむしの少女」の一編を割愛しました、とあった。年代とともにだんだん割愛されていくことにショックを感じた。

人により感じ方も違うから傷つく人もいるのだろう。私が読んだ時、このお話の最後に感動して、少女とともに自分の心も空に放たれて救われた様な気持ちが今でもずっと残っている。だから大人になってからももう一度読みたかったから買ったのに、手元の本にはもうそのお話は載っていない。もう読むことは出来ないのだ。

 

今使っている言葉でも何年も経つともう使ってはいけない言葉になることもあるだろう。言葉を使用禁止にしても、意識の中で差別意識がなくなっていない限りはずっと同じことが続くだけだという気がする。企業が安い労働力を求めて海外に工場を作るのも何処かで繋がっているように。

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