3月9日

・ミレーのオフィーリア

ラファエル前派展にミレーのオフィーリアが見たくて行って来た。前に一度見たことがある。一度見ていてもやはりせっかくのチャンスなのでもう一度見たくて行ってきた。初めて絵を見た時に、ずっと見たかったという思いとともにずっと想像していた通りと感じたのは『草枕』の為だろう。

またまた本棚にあった古い『草枕』から引用したい。(この文庫本は昭和四十四年四十七刷のものだが紙がかなり茶色くなっている。定価はなんと80円、これは旦那の本)

(p.22)

しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から綺麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕櫚箒で煙を払う様に、さっぱりしなかった。

(p.74)

余は湯槽のふちに頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉(ゆ)と同化してしまう。流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂までながしていれば、基督の御弟子となったより有り難い。成程この調子で考えると、土左衛門は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮かんだまま、或は沈んだまま、或は沈んだり浮んだりしたまま、只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸に色々な草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ち着いた調和をとったら、きっと画になるに相違ない。然し流れて行く人の表情が、まるで平和では神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶は固より、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平和な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じ所に所存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいてみたい。

もう読んだ内容は忘れてしまっていたのだけど、たぶんこの部分を読んでずっと頭の中でこの絵を想像していた。その頃はどうしたらその絵が見られるかわからず、何年かして古本屋で白黒の印刷でその絵を見つけたのだ。そして想像していた絵とそっくりで驚いたのだが、この漱石の文章には見たことも無い絵をまるで見たように感じてしまう凄さがあるのだろう。実際に見ることが出来たのは何十年も経ってからだったのだが、その時は広い館内のスペースにぽつりという感じであったような気がするのだが、意外に小さいと思った。今回は入るとわりとすぐの小さめの部屋にあったせいか、それとも絵との距離が近くで観られたせいか、今度は大きく感じた。頭の中で印象が勝手に大きくなったり小さくなったりするのがおかしい。

 それにしても見るずっと前から心を掴まれている絵であることは確かなのだ。

 

ラファエル前派の世界

ラファエル前派の世界

 

 

ルーターを買い替えた

このところ調子が悪かったインターネットであるが、今日買い替えてBUFFALOのルーターから、AirMac Expressというのにした。値段はAppleの方がずっと安かったが、替えてみたら今までのおかしかった所はちゃんと治っていた。やっとはてなブログもストレス無く読んだり書いたり出来るようになった。ああよかった!

BUFFALOの方はアンテナのような部分が折れているのかと思っていたが見たらそうでもなくて、相性が悪いとかそういう問題なのだろうか。

 

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