5月17日

今朝ある方のブログに「自分の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じるようになる。」というような言葉があった。

自分もやはりそういう傾向にあるのだろうかと考える。

そう、同じニュースにみんな関心があって、おんなじ方向を向いている人がたくさんいるかのように思うことはないだろうか。

例えばはてなの購読しているブログはみんな興味があることばかりなのに、いざ、はてなのトップページを眺めてみても、全然興味のあるブログが見当たらない時。このはてなの中でさえ、自分が読んでいるブログがほんの小さな世界でしかないのかもしれないと思う。全体がどれくらいなのか想像できないが、私が知っているのはほんの少しなのだろう。

 

自分が見ている世界も他人とは全然違うことがだんだんはっきりしてくるのに、一緒に生きているという不思議な感覚。そのうち昨日と今日の時間でさえ、あなたとわたしでは違うんですということも当たり前になってくるのだろうか。

 

アンジェリーナ・ジョリーさんのニュースが何日たってもざわざわが取れない。

医者にあなたの癌になる可能性が85%と言われて、誰だって真剣に考える。そして自分にとれる最善の対処をするだろう。

それでも、私はその確率という数字にも、遺伝子診断という医学にも、予防処置という手術にも、それを報道するマスコミ(特に日本の)にも、ぜんぶ????をくっつけて考え続けている。

昨日のニュースでは次は卵巣摘出という話だとのことで、なおさらだ。

 

人間は必ず死ぬのだ。一つ一つ遺伝的に発生しやすい病気を削除していったとしても、それでもどこかで死ぬ。そしてだんだん年をとってくると、10年は生きているかもしれないが、50年は生きていないだろうとか考えるようになる。そういう年月の時間というものが人生でどれくらいの意味になるのだろうかと、本当に真剣に考える。

 

 

名古屋城の本丸公開に本物のふすま絵を飾る飾らないで河村市長と、市の保存する側との対立で、ガラスケースに入れて展示されることになったというニュースがあった。

もともと何百年かは襖としてあったのだろう。空襲の直前に外されて保管されていたために、消失を免れたが、そのまま厳重に湿度などをコントロールして保管していかなければ、劣化して作品がだめになる恐れがあるという。その2週間をだすだけで、一気に劣化してしまうものなのか、出さなければどの位保管できるのだろう。

1000年先に名古屋城と模造品のふすま絵と、倉庫に保管された本物のふすま絵とが残っているのだろうかと。

 

外は爽やかな風が流れている。5月の午後。

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