顔カビだった

ちょうど1年前に顔が痒くなって、ブログにも書いている。

夜に入浴後にはおでことまぶたが赤く腫れていて、触らなくても痛くなってきた。

 

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 なんと一年間その状態で良くもならず、我慢していたが、どうしても治らないので、ついに皮膚科に行ってきた。

家からは歩いて10分くらいのところにあるが、割と新しくできた医療ビルでかかるのは初めてだが、知人が行って良かったというので行ったのだ。

受付で問診表に顔のかゆみと書いて、顔の絵のおでこと目の周りと首全体を斜線で塗った。

それほど広くない待合室は20人くらいの人が座っていたが、空いていた長椅子に座ると、目の前のスクリーンでは映画が写っていた。そうか、映画1本待ちくらいかと納得する。修道女が歌っていたので、「天使のラブソング」かと思うのだが、割と小さめの音なのでセリフは目を瞑ると英語なのでほとんど頭に入ってこない。歌になるとさすがに聞こえるが、そのまま目を瞑って顔が痒かったり、痛かったり、掻いてしまってまた耐えたりとしているうちに、眠気もあってうつらうつらして、ふと気がつくと、映画はいつの間にかスパイダーマンになっていた。

時計を見ると1時間半くらい経っていた。

よろよろと立ち上がって、隅にある給水器のお湯を飲んで椅子に座るとちょうど名前を呼ばれた。

診察室で先生は最初に受付の時に書いた問診表を見ていて、もう診断がついていたかのようで、「顔に普通にカビの菌がいるんですが、それが原因です」と言って、頬の横の皮膚をちょっと擦って顕微鏡で見た。その間1秒くらいの早業だったが、「カビの菌は脂が好物なんです」「ワセリンを塗っていたんですが」「それは油ですね」「あと馬油も塗っていました」「それも油ですね」

というような会話をして、私がしていた対処法が全く逆だったことがわかった。

目はカビではなく、他のアレルギーだということで、血液検査もすることになった。

首も違うので、薬はそれぞれのところに塗る薬と、飲み薬、目薬を処方されて、薬局でもらうと3時間くらい経っていた。

 

それにしても、マスクにかぶれたと思っていたが、病院に入院した親戚の付き添いで暖かいところで長時間マスクをしていたので、湿気がこもってカビも繁殖して、こちらの体調も疲れて体力が落ちることでバランスが悪くなってアレルギーも起きやすくなるのかもしれないと、考えると納得できる。

ワセリンを塗っていることで、皮膚はそんなに荒れているわけではなく、湿疹のような症状ではないのだが、かゆみで皮膚が赤くて痛くなってとても辛かったのだが、抗菌剤入り(ステロイドも入っていた)クリームを塗ったら、すっかり楽になった。

 

血液検査の結果は2週間後ということで、また長時間の待ち時間があるのかもしれないが、次回は映画も観れる余裕ができることだろう。

 

風邪でなくても日常的にマスクをしている人 も多いと思うのだけど、こういうこともあるのだと、お知らせまでに。

プラスチックの分別

今年になってから、ゴミ収集のプラスチックの分別が変わった。ニュースでも取り上げられているが、今まで安易に中国に売ってリサイクルオッケーとしていたために、中国が受け入れをやめたので本気で処理をしなくてはいかなくなってきて、より厳密に分別しなくてはならなくなってきたのだ。

23区と多摩地区、それも自治体によるが随分違う。23区と比べると他はずっと細かく厳しい。実家は杉並区なのだが、燃えるゴミは無料だし、分別もずっとゆるくて、こんなに出し放題なのかと同じ東京都のはずなのにすごい違いを感じる。

まあ文句は言わずに分別するのだが、今回のプラスチックを容器包装プラスチック(週一回収集)と製品プラスチック(2週に一回)とに分けるというのだが、細かくてわかりにくい。今までもプラスチックのハンガー、バケツ、植木鉢など9品目に限ってプラスチックの日ではなく別に回収していたのだが、今後はプラのリサイクルマークの無いプラスチックはすべて分けなくてはいけなくなった。プラスチックのタッパーやおもちゃ、文房具、CDケースなどは製品プラスチックということになるという。一覧表を見てちゃんと分けなくてはいけないのだが、それによるとストローは製品プラスチックでストローの袋は容器包装プラスチックになるという。捨てる時にいちいちこれはどっちと迷うのだが、名前がちゃんと一覧表に載っていないものは悩んでしまう。例えば、ジップロックは?フルーツキャップは?その他お弁当の容器が汚れていないのはもちろんだけど、値段とか書いたシールの紙は全部綺麗に剥がさないとダメなの?それってかなり手間がかかる。都内ならみんな燃やせるゴミに入れてしまうんだけど、こちらは有料だから洗ったり剥がしたり。

プラスチック自体は無料で回収されるのだが、それには透明または半透明の袋に入れて出すことになっている。で、先週、半透明の45リットルの袋で出したところ、中の黄色い梅干しの入っていた容器に袋の上からマジックで黒丸をつけられて、分別されていませんという紙が貼られて回収してもらえなかったのだ。

その容器は底にプラスチックのリサイクルマークが付いていたが、半透明の袋の中で向きも底のところはまず見えなかったと思う。単純に硬そうなプラスチックが見えたので回収してもらえなかったのだろう。こちらも来週まで出しっぱなしにできるわけもなく、まず清掃課に電話した。しかし全然繋がらない。数回かけて、今度は市役所に直接かけて清掃課に回してもらい、話をすると、リサイクルマークが付いているものは回収するので、回収する人が間違えたので、後から回収に来ますとのことだった。

ゴミの回収事業は昔は市の職員だったが、数年前に有料の袋の導入と個別回収になった時に清掃業者に委託するという形になり、そちらの業者の人が間違えたという訳である。このわかりにくいゴミ分別の基準と一覧表は市が作っているのだが、分別してないものを回収して困るのも、分別してあるのに回収しなくて謝るのもみんな業者の人に責任を押し付けているようで、かわいそうな気もした。

電話した後で外出して、帰ってきた時には無事回収されていた。45リットルの袋がそのまま置いて行かれた時は、周りの人に思わず話をしたが、翌朝、ポストに昨日のお詫びが手書きで書かれて入れてあって、こちらの方が回収の人に申し訳ない気がした。なぜなら、いくらプロだからすぐわかるといったって、半透明の袋に詰め込まれたもの全てがわかるわけないし、ましてや底にリサイクルマークが付いているかどうかまではまず見えないはず。

他の人に話したら、分別がちゃんとできていないと回収してもらえなかった家は他にもかなりあるようで、輪ゴムが入ってたとか、カゴが入っているとか、置いて行かれたようだ。

リサイクルするためには厳しく分別してなくては出来ない。そのためには各家庭が徹底して分別しなくてはいけない。しかし、市は今までリサイクルと言っても業者に売ってしまえば収入として入ってくるのでそれだけで終わっていたのではないだろうか。その業者がどのようにリサイクルして完全に処理され再利用されているのかというところには全く知らん顔をしていたのだ。

紙のリサイクルも以前はトイレットペーパーにしたものを安く売っていたのだが、数年前に市民が分別してリサイクルの意識ができたのでといって辞めてしまっていたが、市にとっては紙を売ることによって収入になるのでそれでいいという感じだった。本当はそれをトイレットペーパーにすることには普通のトイレットペーパーよりコストが高いのだから市がその分補助するなりして売ることでリサイクルになっていくはずなのだが、市の方では売って終わりという言い方であまりにも意識が低すぎると思った。

少し前に、テレビでスターバックスのプラスチック製品をリサイクルして自社で使う備品などを作っていくという取り組みをやっていた。今、木でできているコンテナ台をリサイクルプラスチックで作っていたのだが、木はダメになれば焼却することもできるが、プラスチックはなかなか消えてなくならない。今処理しきれていないプラスチックはこれからも処理する必要があるにしても、今後さらに増やさない取り組みこそ持続可能な循環を可能にするのではないだろうか。

本当を言えば冬の寒い時に冷たいフラペチーノは売りません!くらいのことを言って欲しい。そうすればプラスチックのカップのストローも一年の半分売らないと言うだけで半減できるのに!

なのにテレビでは昨日もちょっと暑いと言ってかき氷が何十食売れましたとか言っていた。煽り煽られ踊らされ。

今年もよろしくお願いします

年末に読んでいた本について書いているうちに2019年も一月四日。

三が日は初詣3箇所、お墓まいり2箇所を1日づつこなして、お雑煮も3日間食べ、今朝はトーストとコーヒーに。義母は3年くらい前から出かけても食事に行っても帰ってくると忘れてしまうので、付き合っているこちらもどんどん正月らしい気分とかとは無縁になってきている。常に今の瞬間を生きるという意味では見習うべきだろうと、そういう境地を目指して12月から瞑想を始めた。しかし、年末年始は家族もいるし何かと気忙しくついサボってしまい、やっても雑念が頭からとても抜けない。ちゃんと続けられるようになったら、生活の中で何かが変わっていくだろうか。

 

さて、本のタイトルはこちら

樹木たちの知られざる生活: 森林管理官が聴いた森の声 (ハヤカワ文庫NF)

樹木たちの知られざる生活: 森林管理官が聴いた森の声 (ハヤカワ文庫NF)

 

 作者のヴォールレーベンという人はドイツの森林管理の仕事をしているが、行政官として仕事を始めた頃は森の木を木材として、その利益を考えていたというが、森の管理や原生林の保護の仕事を続けるうちに森の奇跡や不思議にたくさん出会い考え方が変わっていく。人間の目線で伐採したり皮を剥いで枯れさせたりすることがとてもできなくなる。

作者は行政の立場から森林を保護することの限界を感じ公務員を辞めて独立して森林保護の仕事を始めるが、それに森林のある自治体が彼に賛同して森林の保護と管理を個人的に委託したという。数十年単位の本来自生しない樹木の植林や大型車両による木材の運び出しや害虫駆除剤散布などは、採算や人間の都合による林業だが、彼は樹木の習性を尊重して健康で幸せな森を作る方が生産的でそこから得られる収入も多いのだという。

原生林の中では木はお互いに助け合って、根どうしが繋がって栄養を分け与えたり、枝も友達を邪魔しないように伸ばしているという。木も人間と同じように痛みを感じ、記憶もあり、親子一緒に生活している。そこに菌類なども協力していたり、少し読み始めると、木に対する考え方、感じ方が、その後の木に対する時の自分の感情が変わっていくのがわかる。

今まで知らなかった木の生態について幾分かわかったからといって植物に対して理解できたとは言えないのだが、木の不思議さを想像することはできる。

 

森の中の木は自分の子孫が早く成長しないように地面に届く光を少なくすることで教育するのだという。若い木は光がたくさんあればすぐ大きくなるが、殆ど成長できないくらいの光の中で何十年とかけてゆっくりと成長する。100年で鉛筆ほどの太さで人の背丈程度の高さにしかならないのだが、そのおかげで内部の細胞が細かく折れにくく、病気にも強い木になり、結局長生きすることができるのだという。木は長生きするほど若々しく、成長も早く力強くなるのだ。

 手つかずの原生林に入ってみると鬱蒼として歩けないかと思うと、枝は高い位置にあり、低い草や小さな花はあるが歩きやすい。これはなぜか?

 過去のブログで沖ノ島の本殿裏の森のことを書いたことがある。全く人の立ち入らないその森に特別に藤原新也さんが入ることを許されて写真に収めたのだが、まるで庭師が作ったかのように感じたのだという。

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この本を読んでいくとその疑問の答えが腑に落ちる 気がする。

 

私は巨木に出会った時にその幹に手を当てて目を閉じても、何かのメッセージを木から聞くことはできない。何もしゃべってはくれないが、いつか木の考えがわかる日が来るかもしれないと。それは何となくわかっていたような気になっていたことが全然違っていたということばかりかもしれない。

スイスの憲法では「動物、植物、およびほかの生体を扱うときには、その生き物の尊厳を尊重しなけらばならない」というのがあるそうで、道端の花を摘むのも許されないという考え方なのだそうだ。

人間同士でも同じはずなのに別々の考え方で理解できないこともある。動物や他の生き物も生きていることはわかっている。植物も生きているものであるということはわかっている。ただ理解できないというだけで、地球上の生き物すべての命が等しくそして互いに助け合っている存在だということを無視することはできないはずだ。それを受け入れた時に自分自身も変わっていくような気がする。

エネファームにした

今日は一日家のガス給湯器の交換の工事で、部屋に待機しているので、久し振りにブログを書く。あまりに久し振りで、もう書き方もすっかり忘れてしまった。ʕʘ‿ʘʔ

変わっていないのは相変わらず顔がかゆい。いつも顔を擦っていたら、おでこに深い皺が刻まれてしまって、今一生懸命伸ばしているが、もう戻らないかもしれない。戻らないと言えば、虫歯も大きな穴が空いていますと言われて親知らずの神経を抜かれてしまった。  

空が綺麗でしたね、とか紅葉が始まってますとか天気予報の人の言葉も関係ない。テレビをつけても色々な情報はうるさいだけでなるべく見ないようにすると、確かに電車に乗っても、街を歩いても、今の世界はうるさい情報ばかりだと思える。ネットの記事を読もうとしても文の合間や隣で動画が勝手に動き出す。

駅を出るとデッキの上にやたらに人がいると思うと結構年配の人たちなのにみんなポケモンをやってるらしく、スマホを必死で叩いている。 子どもばかりか中高年の男女がみんなやってるのがなんとも言えない。

物を減らして、情報も減らして、心静かに夕日が沈むのをじっと眺める生活をしてみたら、少しは私の頭の中もすっきりして、少しは役に立ちそうなブログでも書けるかと思うのだが、一向に物も減らず、頭の中も雑音だらけでとても無理そう。

 

閑話休題

夏にガスの点検があって、給湯器が13年目で少し性能が落ちて来ているようだったので、壊れる前に交換しようと考えた。キッカケはその前にどこかの国で自然エネルギーで電力自給しているというドキュメンタリーの映画をみて、コージェネという方法について考えていた事だった。ガスコージェネレーションシステムはガスを燃料にして必要な場所で電気を作り、同時に発生した熱を暖房、給湯に利用するというものだ。エネファームというのは停電時に、発電やお湯の使用もできるなど、災害があった時の安心のためもある。もちろん家が壊れたらそれまでだが。

東京ガスの人が説明に来て、設計士の人が家を見に来て耐震などを計算してベランダに置くとそれに占領されてしまうようで、置いてあった植木も半分くらいかたずけた。

今年床暖房が壊れて治る時にそのことを知っていたら、ガスの床暖房にすれば電気代がずっとお得になったようだが、残念ながらその頃は知らなかった。だが今年までは東京都と国からの補助金が出るということで、それも10年目だそうだ。

災害の程度によっては役に立つか、全て無駄になるかもわからないが、電力が自給できたり、水の確保やら地消地産で食料自給率を100パーセントにするとか夢のような暮らしを夢見ている。

そうだ、本屋へ行こう

ちょっと時間が取れたものの、暑いから外を歩くのは無理だし、美術館などに行くほどの時間はない。それで1年前から行きたかった本屋まで電車に乗って行ってきた。

本屋であってカフェで、本と珈琲のセットがあるという。珈琲を頼むと本が付いてくる。読んだことのある本だったら?考えただけでドキドキしてくる。それは池袋にある梟書茶房というお店で、タイトルも作家もわからないようにカバーされた本を小さな紙に感想とオススメの理由が書かれていて、それを見て買うのだという。

もしかしてテレビでも取り上げられたことがあっただろうか、初めてその本棚を見たはずなのに、なぜか見覚えがあるような感じがした。

一人だったので、図書館の閲覧室のような感じの席でコーヒーとホットドッグを頼んだ。残念ながら本と珈琲のセットは本が売り切れてしまい、明日からまた始まるということで頼めなかった。

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私は長居はしなかったが、ゆったりくつろげそうなソファー席やグリーンテラス席や、本が自由に閲覧できる図書エリアなどがあり、ゆっくりと本を読んでいてもいい雰囲気が嬉しい茶房だ。

オススメの24冊を紹介した目録を見て読みたいと思った本も売り切れていて、通し番号だけを眺めながら3往復くらい書棚を行ったり来たりして、本を選ぶ。タイトルはわからないから、小さな紙に描いてあるオススメの言葉を頼りに選ぶ。読んだだけで、タイトルがわかったものがあったが、知っていても読んでみたいと思い、それを手に取る。そしてその下の棚からも引き出したら二冊がセロファンがくっついて出てきた。

そちらはタイトルはわからないが興味がそそられたので二冊とも買うことにした。

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時にはこうして自分では選ぶことのない、いや普通に本屋に行った時には目に入らない本に出会えることがある。そういう本はやはり私のところに向こうからやってきてくれるのだ。さて、何の本だったかタイトルが知りたい人のためにオススメの紙に書いてあった言葉の最初だけ書いておきます。

”日本人なら誰もが読んだことのある「名前はまだない猫」”の小説(ご想像通り!)

”書店員をやっていて、「この本、どこのジャンルに該当するんだ?」という本”

”戦前の詩人の詩選集です”

 

・・ここからは最近のニュースの話題から

タイの少年たちの救出のニュース。テレビの過熱ぶりには感心しないが、少年たちがコーチの指導で瞑想をしていて、9日間を2、3日しか過ぎていないと思っていたと伝えていた。これでまた瞑想がブームになって本も売れそうな気配。それと少年たちが暗い水中でパニックにならないように薬を飲んでから潜水をしたというのも、一体何の薬かと、気になった。そういう時にパニックにならずに何でも落ち着いてできるような気持ちになる薬といったら、私の頭に思い浮かぶのはちょっと危ない系?

彼らがそれほどの瞑想ができるのなら、薬に頼らなくてもできそうな気もしたが、医薬に頼るところは頼るべきなのだろう。

 

プラスチックの海洋汚染が急に取り上げられ始めたと思ったら、スタバでストロー廃止というニュースが出たが、ストローだけですか?となぜニュースでは誰も突っ込まないのだろう。と思っていたら、ウミガメの鼻にストローが詰まっている映像が何万回再生されています、とやっていた。いや、だからそうじゃないだろう!と一人でひたすら突っ込まざるを得ない。新しいカップはやはりプラスチックで「そんなに飲みにくくないですね」とレポーターがコメントしていたが、だからなぜそこでカップの使用については追求しないのか、さっぱりわからない。使い捨てでなくてもタンブラーもやはりプラスチック製品に変わりはない。

みんながストローだけを海に投げ捨てているとでもいうのだろうか。

回収して燃やしているか、プラスチックのリサイクルで使用しているはずの日本でも使用禁止にはするべきだろうが、どうリサイクルされているのか、肝心なことには触れないでストロー廃止をニュースで取り上げても問題が解決するとは思えない。

 

 

そんな!の話

暑くなってきたので、お義母さんが

「もう夏休みだから、デイサービスもお休み?」

とデイサービスを休む口実を考えてる。今月曜から木曜日までの週4回行っていて、その間、お風呂は二日、リハビリや体操は毎日、ほかにも書道や絵手紙や歌ったり、ボランティア活動の演芸の人が来たりなど、盛りだくさんで楽しんでいて、かつ体の調子も適度に運動することで、とてもいい状態なのだが、いかんせんめんどくさくて行きたくない気持ちもムクムクと湧いている状況なのだ。

休みたがっているのに、行かせていると、実の子供だったら、もう歳なんだからそんなにハードでもかわいそうと思うだろうと思う。

ただ今のデイサービスでリハビリの人がちゃんと見てくれて毎日の習慣で体を動かすようになってから、足の運びがスムーズになっているのは事実なので、休日に出かけない日はご飯を食べると寝てしまうので、やはり行って方が生活のリズムもちょうどいい具合なのだ。なので、

「大人には夏休みはありません。明日もデイサービスの日です」

と無情に伝えると、

「あ、そう・・・」

とちょっと悲しげである。

大人でも夏休みはあるかしら?でも主婦には夏休みないし。

でも、行ったら毎回イベントには参加して楽しんでいるというのを聞いて、少しほっとしている。

・・夏休みといえば、中学生の頃、ESPカードを手作りしてノートに結果を書いていたっけ。いくら訓練しても超能力は現れなかった。時間だけはたっぷりあった夏休み。今はブログを書く時間もあまりない。どうしてだろう。

主婦といえば、先日、夫が65歳になり、私の年金の種別が3号から1号に変わった。なんでも3号は夫の配偶者ということで、自分の年金を払わなくてもよかったのだが、これからは1号になり、自分で払わなくてはいけないという。その手続きをしなくてはいけないというお知らせが3月に来て、5月連休明けに市役所に届出を出してきた。

それが数日前に届出が確認できなかったので、1号に変更しました、という内容の手紙がまた年金事務所から届いた。

電話で問い合わせてみると、電話口では私が届出をしたのが確認できたのだが、向こうの処理に一ヶ月ぐらいかかるので、失礼な文面で申し訳有りません、とのことだった。

なんだかこちらが悪いような書き方で、本当に言われたら腹が立ってきて、つい口調が詰問調になると、お知らせをしているのに手続きが遅いせいだとまたこちらのせいにする。しかし、二ヶ月近くも手続きにかかっていることに対するお詫びはない。

それと同時に年金の振込用紙もどどっと送られてきて、夫の誕生日の前日から私が払う分が発生していて、未納分と今月末までに払う分(今期末までの払う分全て)を合わせたらなんと25万円近くだった。

なぜ、私は無職で変わらないのに、夫が65歳になったらこれからそんなに払わなくてはいけないのですか?と聞いたら、今までが特別扱いで払わなくて済んだだけです、とのことだった。納付用紙の期限が2年先になっていることを聞くと、納付期限は過ぎているので、払わないでいると、別のところから、督促状がどんどん届きます、とまた人のことを脅す。

うーん、同い年の夫と結婚した人と、歳の差がある夫婦では妻の年金の支払わなくていい期間が違うのだろうか?なんか変だ。しかも、歳をとってから払わなくてはいけないのだったら、先に言っといてほしいと思うのだが、私が無知なだけなのか。

しかももらえる見込み額は去年からなぜか減っているし、もらえる金額ではどう暮らしていけるのかと考えてしまう。

今から長生きするリスクに不安でいっぱいである。

美しい景色とは

 

 先日、東京新聞のオピニオンの欄を読んでいて、「樹木を剪定して、美観取り戻して」というのがあった。河北新報「声の交差点」からの発言で、3.11後を生きるという見出しの下にあった。

内容は松原の展望台からの景観が生い茂った樹木に遮られて望見することが困難になっていたので、樹木を剪定して美しい景観を取り戻して欲しいというものだった。新緑を楽しむために出かけたが、展望台に立ったら目の前の樹木が生い茂って見晴らしが悪いと剪定して美しい風景を取り戻して欲しいということだった。

新聞の構成上、上に「3.11後を生きる」とあったので余計に私の中に別の見方が心に残った。

目の前に茂っている木は庭木のようなものではなく、自然のままの樹形で茂っているものであろう。本当ならそれも景観の一つであって、ただ以前はその展望台から見られた景色とは違ってしまっているということなのだろう。

人は見たいと思うその構図こそが美観だと思うのかもしれないが、まず目の前の生い茂った樹木の成長も自然を感じてありのまま見て欲しい。そして別のもうちょっと高いところから見渡すとか、新しいビューポイントを探してみるとか、まず私たちの見方が変わると、新しい絶景ポイントが生まれてくるだろう。現実にスマホで美しい風景は色々なポイントから撮影されて検索すればいくらでも松原の美しい景色を見ることができる。私がもしその展望台に立って遠くが見渡せたとしても、手前の樹木の枝が無残に切り落とされていたら、手足をもがれた姿のように見えて、とても美しいと喜んではいられないだろう。あくまでも見る人次第で風景というものは変わるのだ。

なぜそんなことにこだわるのか。木がかわいそうだなどというのではない。ただ邪魔だから切るという考え方を受け入れることができなくなってきているのだ。見えなくて邪魔だから切ればいいというのと、不便だから電気をもっと使おうというのも共に3.11前の私にとっての考え方だったからだ。そういう当たり前に思っていたこと、心の持ち方、視点が変わったことが私にとっての3.11後を生きるということなのだ。

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