世界が平和ではないからといって平和な世界を壊してしまうのか

ベランダの窓の外は、晴れた青空。秋の気持ち良い空気の下は暖かい。時間が止まったようなひと時。昔だったら、ここで一言、私は幸せと呟いただろう。秋の空は私を誘う。読書の秋、食欲の秋、どこか遠くへ一人旅。

しかし、家の中でたいして何もしないうちに1日はすぐ過ぎる。窓の外を飛んでいるヘリコプターの音を聞き、街の中のパトロールの警官が自転車に乗っている人に盗難車かどうかの確認をしているのを見て、今日も街の中で何かが起こっているのかと考える。

三日の日の朝のツイッター

 

昨日は家の近くの市民会館で辺野古基地埋め立て工事のドキュメントの映画上映があった。2014年9月から2105年3月の記録だった。

毎日のように埋め立てに抗議してカヌーで海にでる人に対して、積極的平和を守るために海上自衛隊の隊員が時に一般市民を海に落としてボートに引き上げる。武器はないけれども毎日が戦いの場と変わらない。

 

東京にいると遠く離れてそんな日々を想像することもできなかった。秋の穏やかな空の下で繰り広げられていること。

私の住んで居る街は山も海もない。ついでに道路はアスファルトで庭もないから土の地面もない。生まれた時からほぼそんな環境で遠くで山がなくなろうと、海が埋め立てられようと気にしないまま、気がつけば病院のベットの上で死んでいくしかないのだろうか。

 

最後の宮大工棟梁の西岡常一さんの本を読んでいたら、こんな言葉があった。

 山をけずって、コンクリートの建物に住んで、自然を破壊ばかりしてるとしっぺ返しがきまっせ。(P.254) 

                      『木に学べー法隆寺薬師寺の美』

 

 

 

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