見たまま、感じたまま

爽やかな風が吹いている。風に乗って、そしてどこかのビルに反射して、ヒヨドリの囀り、工事の音、電車の音、キンコンカンカーンという鐘の音、バター醤油で何かを焼いている匂い、そんなものが流れてくる月曜日の10時38分。

朝、トーストを食べていたら、先週虫歯を治療して詰めたものがガムのように伸びて取れてしまった。次の治療日は金曜日。朝電話をしたら、不具合がなければそのままで大丈夫です、と言われて納得したものの、半分くらい欠けて穴が空いているので食べるものが入ってしまうし、そのうち残っている部分もさらに欠けてしまうかもしれない。すると、せっかく型を取ってはめる時にまた入らなくてやり直しになったことが以前もあった。

 

昨日の夜のNHK大阪都構想住民投票の開票ニュースをやっていたが、私自身はその内容を理解してどちらに賛成反対の意見を持っているわけではないが、開票88%でまだ賛成の方が若干上回っていたものの、結果が速報で反対多数とでたとなんどもアナウンサーが言い、字幕もでていた。今朝も同じだったが、僅差で反対が上廻りという表現ではいけないのだろうか。

 

テレビの広告で、お墓がどこかのお洒落なビルにあり、女の子とその母親が御墓参りにくるというのがある。おばあちゃまにお線香をあげに来ました・・という設定なのだけど、見るたびに、この親子とおばあちゃまの関係を考えてしまう。おばあちゃまの実の子供は息子でその妻と孫だとしたら、何故、息子はこないのか。都内の近いお墓にお参りもできないくらい忙しいのか。そして何故おばあさまはそのお墓にいるのか。妻は心の中で、私は実家のお墓に息子さんと入るつもりと考えて、おばあさまはビルの中のお墓にいるのか、複雑な家族関係を考えてみずにはいられない。

普通のお墓と違ってお参りする時だけ骨壷が出てくるようなお墓の広告もみたことがあるけど、マンションの個室にそれぞれ住むような感覚で違和感などないのだろうか。

もっと素直に、実の母親で自分は夫の両親の方のお墓に入るからお母さんがこのお墓に入っているのなら、状況は自然かもしれないが、それなら、おばあさまにお線香をあげましょうというのは他人行儀すぎる気がする。もっとお母さん私を見守ってね、という言葉くらいあればいいのにというのは昭和の感覚すぎるのかしら。

 

 

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