吉田調書 - エピローグ 水面が見えた - 特集・連載:朝日新聞デジタル

4号機の使用済み燃料プールに水が残っていたのは本当に偶然の幸運だった。

吉田調書ーエピローグ

  •      
        

 

f:id:hidamari39:20140609125131p:image

写真|東京電力福島第一原発=2013年12月15日、福島県大熊町朝日新聞社ヘリから、仙波理撮影

 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後11時ごろ、在日米国大使館のジョン・ルース大使は枝野幸男官房長官との電話会談で「アメリカの原子力の専門家を官邸に常駐させてほしい」と申し入れた。米国が原発事故の収束作業の進め方に不信感を抱いている表れだった。
 米国は本国でも藤崎一郎駐米大使を何度も呼んで、懸念を伝えた。米国の懸念の中心は福島第一原発4号機の核燃料プールだった。
 在日米国大使館は2011年3月17日、福島第一原発から50マイル圏内の米国民への避難勧告を出した。50マイルはメートルに換算すると80キロメートルになる。日本政府が出していた避難指示の、距離で4倍、面積にすると16倍に及ぶ。
 日本の避難指示が不十分だと言わんばかりの勧告だが、根拠がないわけではなかった。米原子力規制委員会のグレゴリー・ヤツコ委員長が前日の16日に、プールの水は空だ、と発言していたことだ。
 4号機の核燃料プールには、新燃料204体と使用済み核燃料1331体が入っていた。うち548体はつい4カ月前まで原子炉内で使われていた。そのため、4号機のプールの核燃料の崩壊熱は、例えば3号機のプールの核燃料より4倍も高かった。
 プールの核燃料は、原子炉装着中と違って、鋼鉄製の圧力容器および格納容器に守られていない。さらに、外側の原子炉建屋は3月15日に水素爆発で吹き飛んでいるため、冷却が止まって発火し燃え上がると、プルトニウムウラニウムなど猛毒の放射性物質をそのまま外部環境に放出してしまう。
 そうなると福島第一原発はもとより、わずか10キロメートルしか離れていない福島第二原発も人が近づけなくなり、2つの原発にある核燃料入りの原子炉と核燃料プールがすべて制御不能になると恐れられた。
 日本政府は3月25日になって、近藤駿介原子力委員会委員長に、原発が人の手で制御できなくなれば強制移転区域は半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロに及ぶ可能性があるという最悪シナリオを描かせた。だが、米国は3月16日の時点で、4号機の核燃料プールはすでにその危機的な状態に陥っていると判断していた。
 ところが、日本の最悪のシナリオは現実のものとならず、米国の判断も間違っていた。

 では、なぜ日本の最悪のシナリオや米国の中心的懸念は回避できたのか。重要な考察を「吉田調書」を引用しつつ記し、本エピローグをしめくくる。シリーズでは、原発は誰が止めるのか、住民は本当に避難できるのか、原発はヒトが止められるものなのかを考えてきた。「吉田調書」の分析・検証作業は終わらない。(以下、文中敬称略)

——— 確認したかったのは、4号機の燃料プールなどが水温も上がっていて、ここに対して冷やさなければいかぬとか、ヘリなどで確認する前の段階だと水位が下がっているのではないかとか、いろんな推測が立つわけです。4号機の方に力を入れようかというところで、先ほど確認した優先順位のところでも1番目に1F4ということが書いてあって、実際に3月17日にやったときというのは、91番のところですけれども、3号機の使用済み燃料プールを冷却するためとなっていて、4号機から3号機へ移っている経緯はどういうことですか。

吉田「時間は忘れましたけれども、17日の午前中にヘリコプターが飛びました。注水のヘリコプターではなくて、上空から偵察のヘリコプターです。これは自衛隊さんだったと思うんですけれども、飛びまして、それにうちの社員も乗っていまして、ビデオ撮影をしたんです。そうすると、4号機の燃料プールにどうも水がありそうだ、残っているみたいだ、水位が見えた」

 東日本大震災発生5日後の2011年3月16日午後11時33分。東電本店にある政府・東電の福島原子力発電所事故対策統合本部で、自衛隊のヘリコプターに乗った東電社員がこの日午後5時前に撮影したビデオの上映が始まった。吉田が17日の午前中にと言ったのは16日の夕刻の誤りだった。 ビデオは、米国が空っぽだという4号機の核燃料プールに水面が見えた瞬間が映っているということで、急きょ分析することになった。 「トラスの溝がちょっと水面に映っているのが見えるんですよ。だからここのところまで満水している」                             統合本部にいた人間で、 激しく揺れ動く映像を見て、最初に4号機の燃料プールに水は残っていると断言したのは、東電顧問の峰松昭義だった。福島第一原発1号機着工の翌年1968年にはもう東電に入っていた原発技術者だ。年齢は吉田のちょうど一回り上になる。                「ほかと比べて一桁高い熱量を持っている使用済み燃料プールで、何日も経っていて、なんでそんな水があるのだろう」と、水が残っていることに懐疑的な東電フェロー武黒一郎を尻目に、峰松は1枚の図をもとに解説を始めた。                                       福島第一原発4号機の核燃料プール周辺の状況

f:id:hidamari39:20140609125126p:image

   峰松によると、原子炉の真上の原子炉ウェルという部分に張ってあった水と、原子炉ウェルにつながる「ドライヤー・セパレーター・ピット」と呼ばれる放射線を発する機器を水中で管理するプールの水が、核燃料プールと原子炉ウェルの境にある仕切り板にできたすきまから、核燃料プールに流れ込んだ。仕切り板は核燃料プールの水が満水状態だとその水圧でピタッと押し付けられすきまができることはないが、核燃料の崩壊熱で満水状態でなくなったために押し付ける力が減ったか、爆発の影響で板が少しずれてすきまができたという。                               原子炉ウェルとドライヤー・セパレーター・ピットの水は合計で1440トン。核燃料プールの1杯分強もある。峰松の言う通りだとすると、アメリカがとことん心配する4号機の核燃料プールの危機は去る。                                            検討の末、4号機の核燃料プールは水が十分残っていると判定された。              固唾を飲んで見守っていた首相補佐官細野豪志は、水面が確認されたとき、統合本部内に「おーっ」との声が上がったのを覚えている。                             でも、原子炉ウェルは、普段は水が張られない空間だ。どうしてそんなところに水があったのだろう 東日本大震災3カ月前の2010年12月29日、福島第一原発4号機でシュラウドと呼ばれる原子炉内最大の構造物の取り替え工事が始まった。シュラウドは1978年の運転開始以来、32年間ずっと使われており、初の交換工事だった。                             シュラウドは高さ6.8メートル、直径4.3〜4.7メートルと大きいので炉内で切断し、ばらばらにした後、一つずつ引き上げてドライヤー・セパレーター・ピットに移す手順が組まれた。     また、シュラウドは長年炉内にあり、自ら放射線を発するようになっているため、原子炉ウェルとセパレーターピットに水を張って、すべて水の中を移動させる形で工事を進めることにした。実際、12月3日に水は張られた。                                    工事が始まってほどなくして、シュラウドを切断する工具を炉内に案内・制御する治具と呼ばれる装置の設定が、ほんの少し狂っていたことが判明した。現場で急いで改造することになったが、工期は全体的に2週間ほど後ろにずれてしまった。                            古いシュラウドを切断して取り出した後、新しいシュラウドを入れるため、原子炉ウェルは水を抜いて本来の姿に戻すことになっていたが、その日程も2011年3月下旬に延びてしまった。      当初の計画では、原子炉ウェルを水のない状態に戻す日は2011年3月7日。 超巨大地震発生の4日前だった。(宮崎知己)                                  「吉田調書」 — 福島原発事故、吉田昌郎所長が語ったもの                     取材:宮崎知己、木村英昭                                  制作:佐久間盛大、上村伸也、末房赤彦、白井政行、木村円

 

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger... }