雨の東京駅前、カーラジオからはユーミンの雨のステーションが流れてた

先週末、購読しているブログを読んでいるうちに、昔のことをまた思い出していた。そういえば、ユースホステルの会員証を作ったなと。でも一度も利用することもないままもうその会員証も何処かへいってしまった。あの頃、どれ程遠くへ行きたいと思っていたのか。実際にはお昼頃起きて、午後一杯家の前の道をただまっすぐ行く、という程度しか出来なかったのだが。

新宿の母に手相を見てもらったことがある。母は大丈夫、結婚したら遠くへいく、と言ってくれたが、実際には中央線でいくつか西へ行った程度だった。しかし、結婚してから実家の部屋に行ったのは数回で遠くなったと言えば遠くなったのかもしれないが。

カメラとかを持っていなかった頃の自分の見た景色というのは何十年経ってもはっきりと浮かんでくる。わずかに自分の手や足が映り込む景色だ。

写真集のようなダイナミックな構図ではなく、ごく普通の道であったり、景色であったりするのだが、そういう風景を思い出す度にふわりと身体がそこに着地してふうっとため息をつく。

もしかしたら、心の底で我慢していることに自分自身が気が付かないふりをしているのだろうかと。

 

昨日中野駅の階段で足下に薄い緑色の綺麗な羽の蝶か蛾かが落ちていた。アゲハ蝶などより大きくて初めて見たのだけど、何というのか画像検索してもよく解らない。

 

東京駅のステーションギャラリーで『ジャン・フォートリエ展』をやっていたので観てきた。ポスターにあった絵もまったく知らないまま観てきたのだが、その画が「人質」というシリーズのもので第2次世界大戦の時にドイツ軍に捕らえられたレジスタンスの悲惨な姿を描いたものであると知った。

写真や写実的な絵であったら正視できないであろう。その分題材自体を心の中で見ることになる。人間のやっている行為がどんなことなのか、頭の中をぐるぐる回っている。何故そう云うことが出来るのか。その絵だけではなく、戦争だけでもなく、昔も今も人間のしている愚かで残虐な行為についても、目を背けてしまう自分がいる。

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買ってきたポストカード。晩年の作品はより何が何だかわからない感じ。抽象画と言わず、アンフォルメル(とミシェル・タピエが唱えた)という題材自体をより連想させる抽象化した表現なのだそう。上からタイトルが「永遠の幸福」「無題(四辺画)」「黒の青」。

 

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