「調布玉川惣画図の旅」

先日、多摩川の河原の写真を撮ったけれど、江戸時代に多摩川の源流はどこかと調べて河口までを絵巻物にして、出版した人がいた。

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パルテノン多摩歴史ミュージアムで、「調布玉川惣画図の旅」という企画展をやっているので見に行った。多摩モノレールで終点(始発)多摩センター駅まで行って、左手にサンリオピューロランドがあるためか、何となくテーマパークのようなデッキの道を歩いていく。パルテノン神殿のような感じで小田急線、京王線の正面に聳え建っている。そんなにすごい立派な建物なんだけど、横のわずかなスペースで企画展と常設展と、特別展をやっていた。

玉川の源流から河口までを13mにした絵巻ものが1845年に刊行されたのだそうだ。1839年に小河内郷原村に湯治に来ていた関戸村(多摩市関戸)の相澤伴主が玉川の源流はどこかと疑問を持って自分で研究して源流から河口までの下絵を描き、それをもとに絵師の長谷川雪堤が美しく描き出した。日野の渡しや高幡不動、谷保天神などもちゃんと描かれていて、とても興味深い。

河原の昔の風景はどんなだろうと考えるが江戸時代には木を切り過ぎて無くなってしまった時期もあるというし、さっぱりしているのが本当の風景なのかはわからない。

もちろん奥多摩になれば森が迫ってくるし、源流まで辿るというのはかなり大変なことではなかったのだろうか。

伴主は「玉川」と呼ばれ始める地点を水源とした。現在の源流は一番ながく辿れる所になるのだろうか、笠取山の頂上付近にある「水干」とよばれる最初の一滴の落ち始めるところとされているそうだ。

同じ頃、青梅の山田早苗という人も多摩川源流を現地探索した際の紀行文を「玉川泝源日記」を1842年に書いているが、こちらでは源流は丹波川の上流としている。

 

相澤伴主は花道と作庭を得意としていて、「允中挿花鑑」という生け花の本も1841年に出版している。そして、花道の先生と生徒(各地の名主)とのつながりも玉川惣画図に反映しているようだ。出版はしなくても個人で「〇〇日記」など書いている人は多くてそういうものから人の関わりとかがあとの人が分かったりして、今も昔も変わらないなと思う。特に以前「〇〇ひとりごと」というのも見たことがあるけれど、まさに私のハテナブログのタイトルだった。

それにしても、その時代の数年でこういう絵図が出来てしまうというのはすごいパワーを感じる。今だったら空から見てみようという番組が以前あったが、簡単に見ることができる。その頃の人も同じ様に見たい気持ちは一緒でも実際に辿るのはどれだけ大変だったのだろう。

 

パルテノン多摩のエレベーターで5階に上がると屋上ではなくそこに大きな公園が広がっていた。不思議な感覚で足下を見るがどこから建物だったのかよく分からないが、目の前には池とその先に森があって、右手には広い芝と大きな池もあった。

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池にはカモの赤ちゃん達が泳いでいた。

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グリーンセンターというのがあったのですが、お休みでした。

公園や街や大きなデパート、ホテルも皆広々として立派なのに、やはり年数が経って維持するのに多少苦しくなってきているのだろうか、公園の案内図などは劣化して読めないものがいくつかあり、明るいテーマパークのような街に若干影を見た様に感じた。

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