命を守るというイメージ

昨日は気温が23度で湿度も28%、空は青くて風は心地よく本当に爽やかな気候になり、昨日は久しぶりに毛布を洗って、普段は室内干しのバスタオルもベランダに干した。いくら除菌99%の洗剤を使っても室内で干すとどうしても生乾きの匂いがする。

ところが太陽の光とそよ風に吹かれて同じ洗剤なのにバスタオルはふかふかの良い匂い。タオルに思わず顔を沈めて太陽の香りを味わう。

 

5月15日の安倍首相の解釈改憲の会見で「国民の命と暮らしを守る」言葉を多用して自衛隊の対処が必要な事例を訴えた。使用したパネルでは、米艦に乗っている乳児を抱いた母と子(首相が官僚の作ったものを作り直させたという)の絵を使い「逃れようとしているのがお父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子供達かもしれない」と訴えたという。日曜の朝のテレビで賛成しているという自衛隊幹部や自民党の人が出ていたが、そういう人達も戦争を体験していない世代になっている。守る為に反撃することが必要だという論理と実際に行ってそれを行うこととの違いが彼らにはほとんどないように思える。

スマホを買えば必然的にゲームもついてきて、テレビの広告も当たり前の様にそんなものばかり流れて、モンスターを倒すことに誰も彼も日常の時間を割いている。

一方で他国の脅威が迫ってきて守る為にはどうするかというと攻撃するしか守れないという論理になっていく。誰も本当に自分のことだとは感じている様には思えない。

もう口を聞くことのない人の声を聞くことは出来ないのだけれど、聞く気になれば聞こえてこないだろうか。

 

家で先日観た映画「バティニョールおじさん」は1942年ナチス占領下のパリ、肉屋を営むバティニョールがユダヤ人の子供を匿うことになり、逃亡を助ける物語。

娘がTSUTAYAでコメディーのコーナーから借りてきたよといって見たのだが、以前も全くどこがコメディーなのか分からないのもあったが、日本人の感覚からするとコメディーは笑いながら軽く見られると思うのだが全然そういうところがない。フランスの感覚とはかなり違うのかと思う。

娘の婚約者がユダヤ人家族をドイツ軍に密告して連れて行かれるのに意図的ではないが協力してしまったことになり、ユダヤ人一家の財産も引き継いでしまう。一市民として、自分の意志ではなく状況に流されて行く。逃げてきたユダヤ人の子供を匿うことになるが、その為娘の婚約者のナチス支持者を子供を守るため殺してしまう。

しかし、ナチス支持者だったからと言って殺してしまった後、戦争が終わってあれは仕方がなかったと納得できるだろうか、自分の身に起こったとしたら。

 

バティニョールおじさん [DVD]

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