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本棚に本がある不思議

天気予報に寄れば暖かいのは今日までだとのこと、昨日もそれほど暖かいと感じるまでにはいかなかったような気がするが、それでも確実に雪は減りつつある。

先週、『遠い朝の本たち』という須賀敦子さんの本を読んだ。須賀さんの子供の頃からの本に関する記憶がすごくて、中学生の頃に出会った本で、「まるで自分が生きてしまったようにさえ思える」という程心を奪われ、その世界に入ってしまうような読書の体験には憧憬すら感じてしまう。読書が肉体の一部になり、精神の大切な部分を作っていると感じるそういう読書の記憶、自分にははっきりとこれと語れる程のものはないけれど、私の読んできた本について考える時にはやはりそれらが自分の中にどこかで生きているように思える。

 この須賀さんの中学生のころ出会った本というのが、アン・モロウ・リンドバーグのエッセイで、彼女の別の作品の『海からの贈物』を社会人になってから読んだとあった。

 私の記憶の中にもわずかに残っていたので、自分のノートを見ていたら、(10代、20代、40代と読んだ本だけ記録している)やはり社会人になった頃に読んでいた。その時、よかったのでもう一度読みたいと書いてあったが、もう内容を覚えてはいなかった。読んだ事もほとんど忘れていたのだから。でも須賀さんの本を読んだら再び読みたいと思って、ここからがまた不思議なことに、先月新しく買った本棚の丁度目の高さに、何とその本があったのだ。

 古い本がいっぱいになったので、新しく文庫本用の本棚を買って屋上につめこんでいた棚から少しづつ出して並べていたのだ。しかし、この本を読んだのは結婚する前だから、まさか自分がこの本を持って来ているとはまったく覚えていなかった。

 それなのに新しくかったばかりの『遠い朝の本たち』と同じ棚に当たり前のように並んでいたのだ。

 昭和57年二十三刷の文庫本は今の私には字がとても小さくて少しづつしか読めない。

そしてたぶん30年前に読んで自分がよかったと思った所と自分が感銘を受けている箇所は違っていると思う。読んだ人、読んだ年齢に寄ってそれぞれの場所でそれぞれの人に語りかけている様な本だと思う。

 ところで、手元の本では作者がリンドバーグ夫人、となっている。新潮文庫吉田健一訳の本は現在でも手に入るようだが、作者はアン・モロウ・リンドバーグとなっていた。カバーに「その経歴を一切捨て、一人の女として、主婦として、自分自身を相手に続けた人生に関する対話である。」とあるのに作者名がリンドバーグ夫人だったというのは今となるとおかしいのだろう。私も今回彼女の名前を聞いてもすぐにはっきりと思い出せなかったのはリンドバーグ夫人としか名前を知らなかったせいもあるかもしれない。

 「与えるのが女の役目であるならば、同時に、女は満たされることが必要である。しかしそれには、どうすればいいのか。

 一人になること、とつめた貝が答える。誰でも、そして殊に女は、一年の或る部分、または毎週、及び毎日の一部を一人で過ごすべきである。そう言うと、これはなんと大変なことに聞こえることだろう。多くの女にとっては、これは到底望めないことであって、一人で休暇を取るだけの余分の収入もなければ、一週間を家事に追い回されて過ごして、一日休む暇もない。そして一日、料理や、掃除や、洗濯をした後では、一時間を創造的な孤独のうちに過ごす気力さえも残っていないのである。」(つめた貝)

今朝も鳥たちがベランダに来た。 雀は2,3羽で来てすぐに飛び去ってしまうけれど、ヒヨドリは一羽づつ来る。そして物干に止まって何やら考えているかのようにじっとして遠くを見ている様子。割と長い時間そこに止まっていた。そんなヒヨドリを見ていると、自分も一人になって遠くを見ている様な気がするのだ。いや、そうあらねばならないよと言われているような気がすると言うべきか。

 

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

 

 

 

海からの贈物 (新潮文庫)

海からの贈物 (新潮文庫)

 

 

asahi.com(朝日新聞社):天声人語

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