雑貨から見えてくるもの

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昨日の朝、横浜の踏切事故のニュースをNHKでやっていたが、一週間してもまだ献花が絶えませんと言って踏切前の献花台を映していた。お花の数は2000個を越えたそうで、この方の行動がどれほどの人に感銘を与えたかを伝えていた。私自身も最初にニュースを聞いてただ心を打たれる思いだった。

ニュースはその後カメラの視線が上がり踏切越しの向こうのビルの上に虹が出ているところを映していた。

ところが、この映像は何日か前にも出ていた。最初の頃にお花を供えにくる人が次々と来るというときにも、この虹の映像を出していた。一週間の間に何度も虹がでたのか、同じ映像なのか、ニュースを映画のようにまるで演出しているような気がして違和感を覚えた。

 

一昨日、雑貨屋さんを覗いていたのだが、店内を見て回って一番突き当たりに行った所の棚にケトルがあった。手に取って見ていたら、「それは柳宗のケトルでつやだしとつやなしがあって・・云々」と男性が説明してくれた。もちろん、今までにもキッチン用品のお店や、本などで見たりして知ってはいるのだが、その時にまた特別に引き寄せられたものがなんだったのか、一日考えていた。

 

日常の生活の中で使うもの、今自分の身の周りにあるもの、それらを普段は意識する事無く使っているということ。

 

通常使い勝手はそう変わらないだろうと、あまり深く考えずに頂き物や、景品や、100円ショップで調達して来たものたちが台所にある。特別にこだわっていないせいで、雑多なものにあっという間に囲まれてしまう。

でも、そういう道具を使って調理して、また食器で食べているうちに自分の感性もだんだんそういうものに慣れていく。

食事を作るのは手早く簡単にと思うあまり、実際の所どんどん手抜きになっているこの頃。

 

おとといのランチで柿と春菊の白和えを食べたせいかもしれない・・

 

日常使っている一つ一つの生活の道具は自分の歴史も現しているのかもしれない。

そう思って台所を見回してみる。

 

そういえば、以前100円ショップで買ったトングが使いにくくて、ほとんど掴めないので役に立たなかったのだが、その後で伯母に貰ったトングがとても使いやすくて、やはり高いものは違うと思っていたのだが、帰ってからよく見ると、それがまさにケトルのとなりにあった柳宗理のデザインのものであった。

 

前にテレビでイタリアではゴミ箱を部屋に置かないと、部屋のインテリアにそぐわないという(あるいはゴミがあるのがいや)ような理由だったと記憶しているが、それでいて部屋の床にゴミを捨ててしまうという、やっぱり日本の感覚とは違うというのをやっていた。

それを見てから、家でもリビングに2つゴミ箱があったのだが1つにしてみた。それでもイスに座ったままゴミが捨てられたのに、振り向いてゴミ箱がないというだけでとても不便に感じる。でも、本当に必要かと言われれば、ちょっと立ち上がって歩けば捨てられる距離にあるのだから、1つで十分なのだ。その1つさえもリビングでなく、キッチンがわの1つでもいいのかもしれない。

どうせ捨てる時にはこれからは有料のゴミ袋1つに詰めなくてはいけないのだから。

すると大きいプラスチックのゴミ箱も考えようではない方がいいのかもしれない。

 

ほんの些細な事から生活は変わるだろうか。

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