東京大空襲と一人の建築家

一昨日、東京大空襲繊細資料センターへ行った時、図書のコーナーがあった。 各自治体での空襲の記録の冊子や公民館の学習の記録の冊子などもあって見ていたのだが、そこに建築家アントニン・レーモンドの本があった。このコーナーに何故建築家?と思い読んでみると、中程に付箋があり、その部分にはアントニン・レーモンドがアメリカで砂漠に日本家屋を再現するという不思議な注文があったというふうなことが書いてあった。そして、それが建てられた後全て燃やされたと。その注文は、いかに日本の家屋を効率的に燃やすことができるかを実験するためのものであったというのだ。

 

帰りにそこで1冊の写真集を買った。

東京大空襲: 未公開写真は語る

東京大空襲: 未公開写真は語る

コメントで、id:iireiさんが書いてくださったが、3月10日の東京大空襲はまず、爆撃の中心点を目指して大型焼夷弾を投下し、その火災の明かりを目印にして、その周りに大量の小型焼夷弾をばらまき、目標地域全体を焼尽すという、絨毯爆撃と呼ばれるものであった。

軍需工場ではなく、燃えやすい木造家屋が密集する下町一帯を標的にしていたのだ。

いかに効率よく燃やすかについても、アメリカのユタ州の砂漠の中にあるダグウェイ燃焼実験場に、木造の日本家屋が立ち並ぶ町並みを建設して綿密に実験を行った。室内には襖や障子、卓袱台や座布団まで揃えられたのだ。

そこで何度も燃焼実験をしながら、日本攻撃用の焼夷弾が開発されたとある。

 

そこで、その日本家屋を設計したのが彼だったとわかった。

 

ネットで検索してアントニン・レーモンドについて書いているブログを読んだ。

それによると、

1888年 オーストリア領 ボヘミア地方(現チェコ)生まれ

1914年 アメリカ市民権

1916年 フランク・ロイド・ライトに憧れてタリアセンのライトの元で1年間学ぶ

1919年 ライトから東京帝国ホテルの現場監理の助力を請われ初来日(31歳)

1921年 まで帝国ホテルの内装設計を担当後、ライトから離れる(けん別れ?)

1923年9月1日 関東大震災

        震災後にレーモンド事務所を東京に設立

1938年 アメリカに戻る(50歳)

1939年 ナチス・ドイツがチェコに侵攻し、レーモンドの父、姉は消息を断ち、3人の弟も戦死、ナチスにユダヤ人を匿ったとして逮捕、殺害された

1943年3月 ユタ砂漠の棟割長屋群の完成

1947年 ダム建設地調査依頼を受けて再来日

 

この時以来、フランク・ロイド・ライトの弟子としてではなく"ル・コルビュジェ張りのモダニズム建築家”として26年間日本で活躍する。

 

1973年 アメリカに帰国(85歳)

 

初期の頃の日本建築ということで思い出して、自分の先日のブログの日光旅その3を読み返したら、なんと、イタリア大使館別荘の設計者として、自分でアントニン・レーモンドと書いていたと気がついた。あれは昭和3年(1928年)に建てられている。

 

彼が戦後に日本に戻ってからの建築様式が変わっていることも興味深い。

 

 

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