今日の東京新聞で辰巳芳子さんと若松英輔さんの対談が載っていた。タイトルは「戦後68年 岐路の日本 希望を見つける」
(辰巳)だめなものはだめ。根本的にだめ。でも、みんな原子力や核をなくした方がいい、原発を使わないという覚悟がない。たとえば、太陽熱とかほかのエネルギーが生まれてくるには何十年かかるでしょ。その間、多少の不自由があるという覚悟をして生活をする。どうして最後には食べ物に困るということが分からないのかしら。自分の国で穀類をまかなえる自給率の順位は、日本は世界の中で百二十七番目。山国だから耕せる所がとても少ないのに、その自覚がない。よその国に「あなたのとこにわけてあげるものはない」と言われたら、どうしようもない。
(若松)はずれてほしい思いなのですが、私はもうすぐお金を出しても食べ物が買えない時代がやってくると感じています。戦時中、戦後がそうでした。辰巳さんが長く、繰り返しておっしゃるように、食べ物は売買の対象である以前に、育んでいかなくてはならない何かだと思うのです。
昨日のニュースで暑さの為にさっぱりした食べ物が売れているというのをやっていて、コンビニのサンドイッチが売り上げ好調だとのことだった。そして、工場で流れ作業的にサンドイッチを作っている所が流れていた。
サンドイッチは夏場に食べるには、本当はとっても腐りやすいから、冷蔵庫で保管されているとしても、持ち歩いたり、時間を置いて食べる人がいないか心配だ。でも、たぶん心配することもないのだろう。きっと防腐剤が入っている。だいたい、工場で作られている映像だって、とっても不自然だ。たくさんのまるで防護服みたいにビニールの割烹着にキャップを被って、ゴム手袋でハムだの卵などを乗せていく。
さらに、ハムはどうやってつくられているの?卵はどんな状態で鶏が生んでいるの?
パンには何が入っているの?
しかし、コンビニではサンドイッチの他におにぎりやお弁当がぎっしりと棚に並び、一人暮らしの高齢者や、独身の若者に、助かりますと買われていく。
そういえば、家のそばでも細い道路、2本先毎にコンビニが2件も今年になってから出来た。気がつけば、肉屋もパン屋も豆腐屋も八百屋も、10年前は確かに個人商店があったのだが、高齢化にともない皆お店を閉めてしまった。
あんなに棚にたくさんあるように思えるコンビニも、流通網に天候等で支障がでると、たちまち空になってしまう。そこでしか食べ物が買えなくなってしまったら、棚が空になった時にはどうなるのだろう。
今年は猛暑の一方で東北では冷夏とも言われている。稲の成長にも影響があるようで、いつ自分達の食べる物に関係してくるかは分からない。
どんなものを食べるにしても、誰がどうやって何から作られているのかを、ちゃんと知らなくてはと思う。
8月15日の夜ご飯。
家の屋上で取れた小さなナスが2つ刻んで入っているすいとん。
キュウリの甘酢とキュウリとポテトとハムのサラダ。
(おまけ)
今日の夕焼けと朧月のようにほわりとしている半月。