埋もれて行くもの 3

日曜日の夕方散歩をしていたら、昼間多摩川にいた白鷺の群れがちょうど頭の上を1周して西北の方角へとVの字になって帰って行った。初めて見たのだけれど、立川に住んでいるとこんな光景に出会えるのだと知った。

 

何回か空襲の記録を読んできたことを書いたのだが、昭島市調布市は 市の発行であったが、立川市のものは当時の立川市役所内の立川市文芸同好会になっていた。

被害にあった人数も、聞き書きで集めたものがすべてではないから合計人数をだしてはいない。昭島市の「昭島にも空襲があった」によると、東京都が「東京空襲犠牲者名簿」を1999年に作成に取りかかることになり、それが23区中心になってしまう恐れがあると、同じ年に市民レベルで「多摩地区の空襲犠牲者を確認・調査する会」が結成された。それを呼びかけたのが立川で空襲記録を追い続けていた、小沢長治さんという方だそうだ。その呼びかけの調査で確認された犠牲者名簿を、東京都の締め切りまでに提出し、2001年3月に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 」に納められたという。

その時点で東京都が確認した犠牲者は68,072名であった。

戦後50年以上経って、今更どうしてと協力を得られなかったり、多摩地区には軍事関係の施設が多く、調査は難しかったようだ。

立川の空襲の記録を読んでいると、飛行場の被害の証言と、犠牲者の数には食い違いがあり、実際になくなっていて、不明なままになっている人がかなりいるように思う。

 

ところで、立川の空襲の記録「この悲しみをくり返さない」(昭和57年発行)では、巻末の特集に体当たりしてB29を撃墜させ、落下傘で生還した高山少尉の話が載っている。昭和20年1月9日のことで、まだ空襲が激しくなる前で立川上空で目撃していた人も多かったのだ。

そして、特集2として、同年8月8日に撃墜されたB29の米軍捕虜の事件も記録している。これを空襲の記録に入れることには大変躊躇があっただろう。誰も語りたがらない、すでにある平和を壊すことになるかもしれないことだからだ。

 

加害者は被害者に

被害者は加害者に

 

記録を残したが為に未だに背負いきれなでいるのだろうか。

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