また幸福

どうも最近自分の中で幸福という言葉がキーワードになっていて、これは何かのメッセージかという思いがないでもないが、とりあえずいろいろ。

まず手元の今読みかけの本がアランの『幸福論』であった。最近何軒かの本屋で平積みになっているのを見た気もするので流行っているのだろうか。この本は2012年1月10日第5刷とあるから、今年になって買ったものだが、世間的にも幸福というキーワードがあるのだろうか。

最近母が近所の方でお嫁にきてから、ずっとお姑さんの面倒をみて、今は旦那様の面倒をみて、一度も家の外に出たことがない人がいると、いかにもその人が不幸せなようなことをいうのだが、私は冷たいようだがその人にとって不幸か幸せかは他人が思うことではないし、そんなことはわからない。そう考えることは傲慢なのではないかと思ってしまう。

『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』(デイビット・イーグルマン)という本を読んでいたら、脳が体の動きを解釈し、能動的に構築しているのだという。本を読んでいる時に鉛筆を加えている時に読んだ本を面白いと考える。つまり、顔に微笑みを浮かべていると解釈していて、それが自分の考えだと思っているのだ。

前屈みにならずに、背筋を伸ばして座っていうる方が幸せに感じるのだという。口や背骨の有り様から脳が愉快だからに違いないと解釈して意味付けしたことを自分の意思だと思うのだ。

これはある意味形からでも幸福になれるということでもあるだろうか。

さらに『寺田寅彦』の『糸車』から

「この糸車の追憶につながっている子供の頃の田園生活の思い出は本当に糸車の紡ぎ出す糸のごとく尽くるところを知らない、そうしてそんなことを考えていると自分がたまたま貧乏士族の子と生まれて田園の自然に育ったというなんの誇りにもならないことが、世にも幸せな運命であったかのような気もしてくるのである」

みの周りに散らばる幸福のサインはとりも直さず私が幸福であるということ。

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